#6-5 / スミルノフの首
風の勢いを借りた酸性雨が、間断なく降り注いでいた。
いつしか大雨がサロの街には降り注いでおり、どこもかしこも早々と予定より早く店じまいのようであった。
黒蜥蜴の館では、さっきまでの事件の騒々しさを感じさせないままに時が進んでいた。部屋の片隅、暗がりの中に置かれたそのケージは却って異質で不気味であった。赤い布の被せられた箱からは何も聞こえないが、生き物の気配が確かに存在している。
「……うわっ、きっしょくわりぃな! 何だコイツ、人間かよコレ?」
誰もが気味悪そうに見つめる中で、その檻をガンガンと蹴り飛ばしながらリリーは中を覗き込んだ。その後ろでは、彼女の素行の悪さにはもはや慣れっこのエリーが「またか」といった具合に顔をしかめさせていた。
「おい何か芸できるのか、お前? 面白い事やってみせろよ、コラ。……お手しろよ、お手!」
「噛みつかれても知らねえぞ、おい」
壁に背を預けながらエリーが声をかけるが、知らんぷりされてしまった。まあそうだろうな、とエリーは半ば投げやりな態度ではあったが。
そんなエリーに代わり、スカーレットが着席したままで呼びかけた。
「やめなさいリリー、そいつが興奮したらその程度の檻くらいは簡単にへし折るわ。それから、檻にはそういった場合に備えて電流が流せるように設定してあるの。私の操作一つで貴女も痺れる事になるわよ。まあ、それはそれで刺激的な体験かもしれないけれど」
スカーレットがどこか可笑しそうに呟くと、リリーは舌打ちと共にその足を降ろした。それでもまだ、檻の中に閉じ込められたその『メルティングマン』への興味は尽きないのか屈みこんで中を覗き込もうとする。
中からはメルティングマンが放つ、強烈な何とも言えない異臭が漂った。エリーは鼻をつまみながら「ひでぇ匂いだな、しかし」と今にも吐き出しそうな顔をさせながら呟いた。
「……まったく病んだ世の中よ。酷いったらありゃしない――何もかも汚れちゃって、吸ってる空気まで淀んでる気がするってなものよ。あーやだやだ、ほんっとうに嫌だわ」
ぶつくさと愚痴をこぼしながら、スカーレットはマッチを擦って咥えた葉巻に火を点けた。これは彼女のこだわりでマッチで点火するとまた違った味わいになるそうだが、ハッキリ言って非喫煙者からすればどうでもいい事であった。
「そうは思わない? エリー。今の世界に純粋なものなんてあるのかしら」
「いやー、ちょっと分かんないっす。……で、何すか? この化け物」
スカーレットの話には興味なし、といった具合にエリーが問いただすと、彼女はいささかばかり眉根を持ち上げた。
「あぁ、知る必要なんかないわよ。私だってよく分からないし」
「……そこは流石にもうちょっと丁寧な嘘つきましょうよぉ~。それとも機密事項ってヤツなんすか? 便利な言葉だなぁ、これ」
エリーが腕を組んだまま、いささか呆れたように身体を引いた。ちょっとばかり沈黙が落ち、同じようにスカーレットは腕を組んで考えたようだ。葉巻の煙を吐き出すと、ややあってから唇を動かした。
「貴方達、お口の堅さに自信は?」
「まあ、聞いたところで話すような相手もいないし。漏らした途端にどうなるかはよーく分かってるつもりだけど。で? どっかの店にゲテモノとして売り飛ばすつもりなんすかね、これ?」
「……。話が早くてとっても助かるわ、エリーちゃん。……そいつは依頼を出してきた相手に引き渡すつもりよ、サンプルとして回収して欲しいとの事だから」
「サンプル? 一体、何の為に……あ、まさかそこからが言えない部分とか?」
「あらぁン、どしたのその反応ってば。急に怖気づいちゃって萎えちゃった? ここまで話したんだからあとはもう運命共同体になってくれなきゃ困るわよ、腹くくりなさい」
それを聞いて何となく、頭の片隅で「これはうまい事ハメられたに違いない」と、エリーは考えた。何か面倒な仕事でも回ってくるんじゃなかろうな、とやや後悔の念に押されたところでスカーレットを見つめ返した。
「……そいつはねェ、元は私達と同じ人間よ。でも『とある実験事故』でこんな風に変異してしまったの。皮膚組織が崩壊し、ぐずぐずに爛れ、こうしている間にも細胞が次々に死んでいくからそれを食い止める為に同じ人間を襲って食らいついたりしていたわけね。そんな真似をしても失われた皮膚が復活する事なんかないのに――浅はかだわ、後遺症で知能も動物並みに低下しちゃったの」
「実験……事故? へぇえ、じゃあこいつは被験者だったわけだ」
「ええ。こういった失敗作“ども”の事は何て呼ぶか知ってる?」
ども、って。その言い回しに何かとてつもなく嫌な感じがしたが、エリーはとりあえず気にしない事にした。まあ、とりあえず今は。
「成り損ないよ。神様になろうとした結果、人間にもなれなかった哀れな醜い化け物。そのうち骨も肉も溶け落ちて、終いには手足のないぶよぶよの物体に変化するわ」
「……」
流石のエリーも笑い飛ばす気分になれず、只々口元を曖昧に緩ませただけだった。
おぞましい生体実験が行われている、それだけでも十分にぞっとしないでもないが(って、それを俺が思うのも何か変か? いや、変じゃないよな。うん)、そんな得体の知れない物体の駆除を自分達に詳細を伏せた上で遂行させるなんて。……いや、この女上司も相当だ。
「ねぇエリー、この世に何一つ汚れのない純粋なものって存在していると思う?」
「……いや、ないっすね……、たぶん……」
まだ色々と聞きたい事はあったのだが、改まったように同じ事を聞いてくるスカーレットの目が怖かったので、エリーは結局出かかった言葉を押し込んだ。喉の奥に押しやって、黙り込んだ。
まるでおもちゃ箱をひっくり返したよな雷雨が、サロの街を包み込んでいる。遠く鳴り響いていた雷鳴の音だったが、すぐ近くに落ちたようだった。アンネは目に見えて嫌そうに顔をしかめ、それから両耳を押さえ込んだ。
「……近かったですね、今のは」
「苦手なんだ、雷の音」
――そうなのか。それは、知らなかった事だった
「この街はしょっちゅう雨が降っているから、いつもこんな風に荒れるだろう」
「……ええ……」
何とか理性があるから、今こうやって彼の身体を押しのけようとしたのかもしれない。しかし、それもすぐになくなるのだろう。理性があろうがなかろうが、自分の事はあまり好きではないのだけれども。
「……ねえ。そういえば、君の名前だけど、その“ミチオ”ってどういう字を書くんだい?」
「普通に道に雄、ですけど」
「君にとっての普通の『みち』と『お』が、一体どれなのか分からないよ」
アンネが微笑みかけてきたのだが、何故かそれが幸福なものに見えなかった。彼が何を考えているのか分かれば、もう少し楽なのかもしれない。……いや逆で、もう少し辛いのかもしれない。いずれにせよ、自分が幸せになれるわけではないとは思った。
でも、ベッドの上で寝転ぶアンネの胸に額を当てているうちに、大きく深呼吸をしているうちに、お互い血の匂いも取れないままにこうしている事が何故か無性に幸福を感じた。さっきまでの地獄から切り離されたような気がして、誰かと肌を合わせる事がこんなにも自分に安らぎをもたらす事なのだと、思い出せた。
スミルノフは左手でシーツの質感を確かめるようにしながら、右手をアンネの頬へと伸ばした。
「――僕に、僕に何か話を聞かせてくれないか。綺麗な話が聞きたいんだ……」
「……随分とまた難しい事を言いますね」
あの時にアンネに浴びせられた血は、今はもうすっかり乾いて、けれどその血がもし自分の指先を汚してくれたらどんなに良かっただろう。そうすれば、自分はもう少しだけ理性が働いてくれて止めてくれたかもしれないのに。アンネの絡んできた腕が、首筋を撫でて、このまま絞めて殺してくれたらどんなに幸せだっただろう。どれだけの間違いに気が付いたんだろう。次の瞬間、唇を重ねた時にはそんな感情も呆気なく崩れていた。
「っ……ん――、」
吐息を飲み込むような、互いの存在を確かめ合うようなキスだった。遠慮がちにしながらも舌を絡めてくるアンネに応えながら、唇の間からは熱っぽい吐息が漏らされる。上着を脱いだアンネの脇腹辺りに、ともすれば見落としそうなくらいに小さな擦り傷を見つけた。猫のひっかき傷のような小さな小さな痕だった。
うっすらと血を滲ませるその傷跡を眺めながら、まるでその血が自分の一部のように愛しく感じている自分がいた。
「恥ずかしいけど、初めてなんだ。こういう、事……されるの……」
「俺だって、男相手は初めてです」
もっと何か言いようがあったような気もしたが、考えても答えは出てきそうにもなかった。仮にあったところで、自分がそれを正しく伝えられたかどうかは知らないが。行き場のない熱に浮かされるようにして、どちらからでもなくその行為は始められた。
「っ……、ん・あっ……ン、ぅ」
体重をかけるような、キスの後だった。耳朶や指先、首筋、そしてその傷跡をなぞるようにしながら、たっぷりと時間をかけた前戯だった。もし、もしも自分が同じように傷を作ったなら、アンネはその傷を同じように撫でてくれただろうか。それとも指を入れてまさぐるのだろうか。傷跡を割って、細いその指を突っ込むだろうか。掻きまわし、自分の中に入るのだろうか。
「何か――何か話して……」
「……え?」
「なんか怖いから話しててよ、何でもいいから」
「ごめんなさい、そんな余裕、ないです」
顔を横に向けたアンネの頬に手をやり、こちらを振り向かせて無理やりにキスをした。半ば怠惰そうに、けれども彼は応じてきた。アンネの指が自分の傷を抉るところを想像して、勝手に興奮した。そうしたら自分は痛みで泣くのだろうか。案外平然としているのだろうか。むしろ恍惚と口をだらしなく半開きにさせているだろうか。
アンネの顔の横に手を突いて、挿入した。背中と後頭部に回された彼の腕に、ぐっと力が籠り、その熱い吐息と喪失の声を耳元に感じた時、ずっとずっと待っていたものが手に入ったかのような歓びが全身を満たした。……もうどうなってもいい。どうなってもよかった。そう思える瞬間が、自分にも訪れた。
「ン、ぁ――っ、……っ」
全てを手に入れたような、けれども同時に全てを失うような気持ちだった。世界の全てから見放されたような、置いてきぼりをくらったような、そんな味がした。
行為が終わった後に、アンネはシーツに伏せたまま静かに呼吸を漏らしていた。一瞬眠っているのかと思い、そのまま部屋をそっと出て行こうと思ったが、彼はどうも起きているようだった。
「スミルノフ」
名前を呼ばれた事にすぐ気付けず、一瞬考え込んで、自分の事だとようやく気が付いた。さっきまでは本名だったけれど、やっぱり自分は彼の中ではスミルノフのままなのだと思った。
「……明日も頑張ろうね、しばらくしんどそうだけどさ」
ははは、と背中を向けたまま笑うアンネは一体どういう顔をしていたのだろうか。本当に笑っていたのだろうか。それとも、泣いているのかもしれなかった。
自室へ戻る前に、ふとキティーの事が思い浮かんだ。
この雨だから今日の営業はもう、済んだのだろうか。また部屋で妙な真似をしていないか気にかかり、通りかかった際にその扉をノックした。
彼女が律儀に返事を寄越すような性格にも思えなかったので、扉を開くと、鍵が掛かっておらずにすんなりと開いた。キティーの中の辞書には、きっと『不用心』の単語は載っていないのだろう――部屋に足を踏み入れた途端に、キティーはこちらを振り向いてベッドから飛び降りた。
彼女はこちらに向かって一心不乱に駆け出してくると、やけにキラキラした目をさせながら無邪気に問いかけてきた。
「ねえ、教えてくださるんでしょう!?」
「……え……、な、何が……?」
キティーは和服の袖を振りながら、裸足のままでその場でじれったそうに地団太を踏んだ。
「死に方よ。あなた、キティーに言ったじゃない! 死ぬには楽なやり方があるって!!」
――ああ、そういう事か……
と、納得したもののすぐに「いやいや」と考えを改める。……当然、あんなのは口から出た言葉の綾にすぎないのだが。まさか覚えられているとは思わずに言葉に詰まり、苦笑を浮かべざるを得なかった。キティーは珍しくその顔に愛らしい笑顔を浮かべており、今までの病的な美しさとはまた違う可愛らしさを覗かせていた。
まあ、言っている内容が内容なだけに中身は相変わらずネジの外れた少女なのだろう事には変わりはない。
「考えてみたのだけど、首吊りはどうかしら?……でもあまり美しい死に方じゃないわ、あれって舌も目玉も飛び出しちゃうんでしょう」
「……俺の父親はそれで死んだが、確かにあまり綺麗ではなかったな」
何気なく口にした言葉に、キティーは更に食いついてきたのだから困ったものだった。やはり愛くるしい笑みを浮かべるキティーに、馬鹿げた保護欲のようなものを感じてしまい、スミルノフはそれを時間をかけて眺めてしまった。
「まあ、そうなの? やはり苦しかったのかしら。……ああ、でもね……お客様の中にキティーの首を絞めるのが好きな人がいたの。貴方よりもうんと年上のおじさんよ、その事がスカーレット様にばれてしまってからは、もう出入り禁止になってしまったのだけど」
「……」
何かを言い返すのも憚られるよう、スミルノフは立った姿勢のままでキティーの言葉に耳を傾けていた。
「その時は、キティーはとても息苦しくて気が遠くなってしまったのだけど。……でも不思議よ――何故か、それとは正反対にキティーの心はまるで羽でも生えたようにふっと安らかになるの。どうしてだと思う?」
「……さあ、どうしてなんだい?」
苦しい息を、ずっと噛みしめていた。
「身体の痛みが消えて、それから……大好きなお兄ちゃまが傍に感じられるから。お兄ちゃまがキティーの元に帰ってきてくださって、笑って迎えてくれるの。あの時だけは、もう会えない筈のお兄ちゃまと一緒にいられるから、キティーは大好きよ。……だって、夢の中にも出て来て下さらないんだもの……」
――限界だ。もう駄目だ。
色んな顔が思い浮かんだ。それはもう何年も前に亡くなった妻と子の笑う姿だったり、かと思えばついさっきのアンネと行為に溺れていた時の表情だったり、男って最低だなとせせら笑うリリーの横顔だったり、『想像力が足りないのさ』と笑った時のアンネだったり、虚ろな目で鼻歌を口ずさみながら街を徘徊するキティーの顔だったり。また時間は進んで、死神と呼ばれる時のアンネの冷たい表情が交互に浮かんで、それから再びキティーの顔を見つめた。
彼女が死に固執する理由が垣間見えて、それから胸が押し潰れるように痛んだ。
この子は俺だ。……俺自身だ。
自分には理解できない理不尽なまでに世界に放り出され、それでも人から教わった知識や自分で、何とか導き出したちっぽけな答えにしがみついて。理解できないおぞましい場所の中で、何とか自分の居場所を作る為に、生きる為に必死になっている。
狂っているのか彼女ではない、周りでしかない。
「……? どうしたの、スミルノフ。まさかあなた、泣いているの?」
「いいや。目にゴミが入ったみたいだ……おかしいな」
かつて彼女に抱いていた、不気味、おかしい、可哀想な子、そんな感情が今はもう悲しみや寂しさや、何よりもキティーがどうしてこんな目に遭わなくてはいけないのか、そこから生まれる怒りや疑問ややり場のない愛情で胸が潰れそうになり、言葉にできなくなった。もう掬い上げる事ができない。
スミルノフは屈みこみ、顔を伏せ、キティーの前だというのに鼻を啜っていた。
「なあに?」
「いや、そのう……な、な……な」
駄目だ、涙の気配が邪魔をして、ちゃんと喋れない。目の奥がぐっと熱くなり、次第に涙が溢れてきて、言葉を阻害してくる。何とか声帯を震わせて、スミルノフはキティーを見つめた。
「な、何とかしてやれないかな、俺、君に――何とか……して……何とか……してあげられないのかな」
それだけ言うのがやっとで、あとはもう言葉にならない。キティーの小さな両手を握り締めて、泣きながら頼んでいた。必死になって泣き止もうとしたが無駄な事だった。