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#6-4 / スミルノフの首

 言い渡された命令だが、メルティングマンは『殺してはいけない』との事である。生きたまま回収し、尋問する事が目的だと言っていたがスミルノフはそうじゃないだろうと言葉の裏にあるものを察知していた。きっと――、あわよくば客寄せのゲテモノとして高額で売り込むつもりでいるのだろう。スカーレットはそういう女だ、金儲けになりそうな話には人道的問題なんぞは差し引いてでも食らいつく。

 アンネと共に警備をしていたのは、人通りの多いJ地区だった。この通りを初めとし、比較的高級店が軒を連ね、最終的には街の果てでもあり象徴ともされる『黒蜥蜴の館』へ辿り着くようになっている。別部隊の護衛からスマートフォンに連絡が入ったのは午後八時――本格的に街も活気づいてくる時を見計らうかのように、その報せが緊張を走らせた。想像していたよりも随分とあっさりとその尻尾が掴めた事に薄ら寒いものを覚えなくもない。


 いや、スカーレットの事だ。わざと何か餌を撒いていたのかもしれないがともかく……アンネが緊張を孕んだ様子で電話に応じた。

 

『すまない、至急っ……アンネ、すぐにでも助けが欲しい――こいつは俺らが思っている以上に――』
「――? どうしたんだ、一体そっちで……」
『ッ――くそ、何だこいつ、――』

 

 酷いノイズと共にかき消されたが、一呼吸置いてから凄まじい悲鳴がアンネの耳に届けられた。がさがさとした音質の呻き声の後、その子機ごと破壊されたのかガッと雑音を残しその通話は一方的に途切れてしまった。

 

「ど……どうしたんですか、一体?」
「……、緊急事態が起きたみたいだね。エリアはI地区の七番、あそこを見張っていたのは全部で三人。一人は恐らくもう駄目だ」

 

 アンネの言った内容より、その静かな声質にむしろぞっとした。しかし、スミルノフはごくりと唾を飲み下した。

 

「ただちに向かいますか? 罠の可能性もあります、俺達をここから動かす為の」
「勿論それについても危惧しているさ。……だから動くのは僕達二人だけだ、すぐに応援を要請してここを見張らせておく。しっかりと準備を整えておいてくれ、少しだけ動くぞ」

 

 位置はここからやや南西寄り。どちらかと言えば人々で活気づくこの周辺よりも静かな、夜の闇が濃い場所だ。この街では少し位置が違うだけでも、別世界に迷い込んだようにガラリとその顔を変えてしまう。

 

 異変が起きたその辺りは、耳が痛くなるほどの静寂に包まれていて驚いた。
 さっきまでの歓楽街特有の賑やかしい喧騒は一切消え去り、けばけばしいネオンライトは闇に塗り潰され、まるで違う生き物に取って代わったかのようになってしまっていた。足を動かすほどに、闇の気配が濃くなった。目が慣れるのを待ちながら動き、アンネの背を守るようにしながらスミルノフは静かに追いかけた。

「……何だか酷い匂いがするな」
「この辺は下水が張り巡らされていますから、それもあるのかと」

 

 今でこそ厳しく罰せられるが、つい最近までは飲食店が腐った食い物や賞味期限の切れた飲料をを付近の川に流していた事があった。処分にかかる金銭を出し渋り、食品類は細かく刻んで袋に詰めて出所が分からぬように投棄していたとの事であった。
 

 勿論それらが漏らす臭気は尋常ではなく、飲食店は経営を差し止めさせられた結果、客も遠のき店を畳む事となった。夥しい量の腐敗品は細かく千切られていたのもあり、全てを回収するのは不可能と見なされてしまったようだ。

 

 壁と壁の隙間へと進むと、やはり人気はなく静寂と闇だけが横溢していた。
 

 アンネの背中に従い、歩き続けた。極度の緊張感と強烈な臭気からか、疲労感も倍に感じられてしまう。全身からは汗が吹き出し、煙草で汚れた肺(このサロへ来てからというものの、煙草と酒が許されるようになり刑務所内ではやめていた煙草をまた吸い始めてしまった)が一気に悲鳴を上げる。対するアンネは平然と歩き続け、やがてその足を止めた。立ち尽くす彼に追いつき、声をかけたが彼の向こう側に見える景色に口をつぐんだ。

「……アンネ……」
「――ああ……」

 

 分かっている、とばかりにアンネが小さく頷いた。一層生臭い空気が覆い被さってきたかと思うと、もはや馴染みつつあった赤い染みに呼吸を忘れて凝視する。血液の塊は既に固まりかけの状態で、そここに飛び散った血の跡は酸素に触れて変色し始めている……。

 

「全員やられている。もう口を利けそうな者はいない」

 

 つまり三人とも全員、死んでいる。
 ばらけた四肢は、一応三人分の顔があるのを確認できた。真ん中に見世物のように置かれた首は、三人の中では一番若くアンネとも親交があった護衛の青年だ。虚ろに開かれた目元、血の気の失われた生気のない顔。無念そうな表情。――出かかった声を飲み込まざるを得なくなった。

 

「酷いですね、これは」
「あまり見ない方がいい、君はすぐに気分を悪くする」

 

 指摘の通りに、ミゾオチの辺りが何かに押し潰されたようにぐっと苦しくなってきた。漂っていた異臭に混ざり、強烈な血生臭さが鼻腔を突いては胃袋を好き勝手に揺さぶった。

 

「――それよりも出てきたらどうだ、そこにいるのは分かっているんだぞ」
「っ……!」

 

 アンネの威嚇するような声に、スミルノフも慌てて懐の拳銃へと手を伸ばした。自分達の背後から、それは姿を見せた。強烈な臭いと何よりもその全貌に圧倒され、スミルノフは冷や汗がじっとりと滲むのを認めた。

 

 気味の悪い笑い声が聞こえてきたかと思えば、そいつは憚る事もなく闇の中に佇んでいた。

 崩れた顔面、めくれ落ちた皮膚と共に付着するねばねばの液体。溶け落ちた顔には、もう耳も瞼も唇も見当たらない――頭の上からつま先まで、コールタールを浴びたかのようなグロテスクな見た目。歩くたびにネチョネチョと不快な音を立てながら、そいつは笑っているようにも見える表情のまま、ゆらゆらと近づいてきた。

 

(これがメルティングマン……先に聞いていた通りの……)

 

 見た目だけではなく、その歩き姿もなんとも言えない気味の悪さで、まるで骨がないかのような独特の歩み方。滑稽と言えば滑稽だが、笑い飛ばす気分にはなれそうにもない。ゆったり体と手足をくねらしながら、メルティングマンは片手に犠牲者の者と思われる手首を持ちながらその全貌を現した。

 

「見た目に圧倒されるなよ、スミルノフ。先にやられた彼らはこの見た目に圧倒されて隙を突かれたに過ぎない。……所詮は何の技術もない見てくれだけの相手だ、僕達が負ける要素はないんだ」

 

 アンネの声が、酷く心強かった。そのくらい、現れた怪物の姿にスミルノフは恐慌をきたしていた。この世の醜悪さという醜悪さを全てかき集めたかのような不愉快さだ、まるで蛇やゴキブリを見た時のような生理的嫌悪感を煽ってくる……。

 

 メルティングマンは怯え竦むこちらを見透かしているのかどうなのか、持っていた手首に齧りつくと、歯を立てて食らいつき始めた。クチャクチャとわざとらしいくらいの音を立てながらメルティングマンはかつての仲間のものと思われる肉身を美味しそうに頬張った。
 

 話にあった通り、知的な部分は何もないように見えた。本能のままに動くだけの野生動物と何ら変わりがないと思い込むようにすると、気持ち悪さよりも怒りの方が沸々と込み上げて己を支配してくる。

(その通りだ、挑発しやがって……!)

 

 頭に血が上りそうになったが、アンネがそれを片手で制する。そのまま、一歩前に出たかと思うと彼は刀に手をやった。メルティングマンそのとろけた顔をにやつかせたが、奴の方から距離を縮める事はしない。
 

 げっげっげっ、と奴の出しているのであろう気味の悪い笑い声がこちらにまで響いてきた。

 

「何がそんなにおかしい?――僕の間合いに入っているのに無防備だな、それともまさか望んで斬られたいのか」

 

 構えから言ってアンネは一瞬で片付けるつもりなのだろう。メルティングマンの手首を切り落とすつもりか、それともどこかしらの部位を傷つけて怯ませるか――だがこの妙な違和感と胸騒ぎは何だ――スミルノフは固唾を飲み、その目を細めた。

 

――どうして奴が動かないのか……そうだ……恐らく……

 

 しまった。どうしてもっと早く気付かなかった。
 

 スミルノフが慌てて叫び、アンネを止めたが恐らくもう間に合わないだろう。奴の方がほんの一秒、早かった。

 

「……アンネ、下がれっ!!」
「!?」

 

 アンネが刀を抜くよりも僅かに早く、メルティングマンの口から血による毒霧攻撃が噴射された。赤い闇が、アンネの視界を支配する。……人肉を齧っていたのはこれが狙いだったわけだ、少し考えれば分かる事だったのにこんな稚拙な罠に引っかかるなんて! スミルノフは自身が気付けなかった事にせよ、冷静なアンネさえも奴のペースに最初から乗せられていた事にせよ――ともかく情けなくなった。

 

「……くッ……」
「アンネ!!」

 

 アンネが血液を浴びせられた目を押さえながら後ずさった瞬間、メルティングマンは奇声と共にアンネの首を片手で押さえつけた。噂にあるように『人力を超えた怪力の持ち主』というのもどうやら真実なようだ、アンネは壁際に撥ねつけられ、あっという間にその弾みで刀を落とした。
 

 時が異常なまでに早く進んでいる。
 

 まずい。これ以上、もう一秒たりとも奴に与えるわけにはいかない!

「くそ、この化け物がっ!」

 

 スミルノフが叫びながら引き金に手をやったが、メルティングマンは今度はアンネの頭部を鷲掴みにした。その馬鹿力に身を任せた戦法か、アンネの身体そのものを自らの盾にしようと引きずり出した。
 

 もはや戦略も何もない、力任せの攻撃。体格の差でも恐らく、武器を持たないアンネとこいつとでは歴然とした差が生まれる。メルティングマンはアンネの首に腕を回した状態のまま、可笑しそうに笑った。スミルノフの、引き金にかけた指がすかさず動きを止める。

(駄目だ、撃てない!)

 

 アンネに命中させずに、確実に奴だけに被弾させる自信などなかった。アンネは潰された視界に目を閉じ、奥歯を噛みしめている。
 

 視覚と共に武器も奪われた彼は、あっさりと、他愛もなくその戦闘能力を封じられた。メルティングマンは、やがてアンネの身体ごとこちらに向かって放り投げてきた。彼の身体がスミルノフに勢いをつけてぶつかり、二人はそのまま地に背中を預ける事となった。

 

「あっ……!」

 

 共倒れになると、背中に既に絶命した『元仲間』のヌルリとした感触があった。同時に一層強い血の匂いが覆い被さった。どこの部位を敷いたのかは想像したくもなかったが、ともかく粘着質な感触が背中を湿らせた。
 

 ゲッゲッゲッゲ、と蛙を思わせるような声でメルティングマンが笑い声を飛ばし、そんな自分達を見て勝ち誇っているのが分かった――。
 
「アンネ、アンネ! しっかりして下さい、まさか両目とも……」
 
 ひとまずアンネの細身な体躯を起こすと、アンネの視力は回復したのか……いや。そうではないようだった。
 だが、彼はすっかり覚醒していた。
 覚醒だなんて聞こえのいいものではないかもしれない。むしろそれは、退化かもしれない。アンネは血に濡れた片目を見開くと、忌々しげに奴を見据えていた。――心臓の音がやかましい。スミルノフは自分の心臓がみっともないくらいに鼓動を響かせているのを感じ、同時にアンネに恐怖心を抱いた。

 

 覚醒ではない。だが、昏迷でもない。……アンネは自らの精神を死神に『貸して』いる。狂気に身を沈めている……。

「――笑、うな……」
「あ……アンネ、早く、早くあいつを……」

 

 ダメだ。
 

 スミルノフは思ったが、的確な言葉が出せないでいる。ダメだ、ともう一度叫びかけた瞬間には、アンネは立ち上がりざまに相手の懐へ飛び込んでいた。

 

「何がおかしいんだ、この化け物が!!!!」

 

 アンネは武器を拾わなかった。メルティングマンの肩を掴むと、その顔ではなく同じくとろけかかった腕を狙い拳を浴びせた。腕にダメージと共に痺れを貰ったメルティングマンは、間抜けな悲鳴を上げたのちに背後の壁に背をぶつけた。

 

 剣術では見られなかった動きだが、俊足の一撃であるのには変わりがない。狙いも確実だった。――スミルノフはまた、さっきこの化け物と対峙した時とは別の圧倒に言葉を失った。

 

「……おい、笑ってみろよもう一度……」
「あ、アンネ……」

 

 アンネはやはり刀を持たず、今度はその溶けた顔面めがけて拳を浴びせていた。グチョリ、と何かが潰れるような嫌な音がした。組織の崩壊したその身体は脆いのか、メルティングマンの頬にくっきりと殴られた痕跡が残った。アンネの拳が残った肉を削ぎ、歯列が露出したのがこちらからでも見て取れた。

 

「笑え! 笑えって言ってるだろうがッ!!」

 

 素手での格闘を見たのはこれが初めてだった。――いや、と考えを改めた。これは格闘じゃない、これでは単なる……人語を解さない筈のそいつが、アンネの殺気に委縮したようにすっかり戦意を失くしているのが分かった。ヒィ、ヒィ、と獣じみた泣き声が漏れてくるのが分かった。

 

「アンネ、もう……もうやめろ……」
「立て! まだ終わってないぞ、立つんだこの化け物!」

 

 ほとんど嬲り殺しでしかない光景に、もはや怪物側に哀れを抱く程であった。先の殴打によるダメージも残っていたが、スミルノフは何とかして残る力を総動員させて起き上がった。背中に受けた打撃がのしかかり、骨が軋み悲鳴を上げたのが分かった。

 

「さっきみたいに僕に血を浴びせるがいい! 造作もない事だろうが、貴様にとっては! やれ、やれよクソが、クソ野郎!!」

 

――ああ、何て事だ。アンネめ、相手に心を折られてしまったか……

 

 一度敵に心をやられたらもうお終いだ、その場の恐慌に飲まれ蝕まれて……見ていられず思わず目を伏せた。耐え難い痛みに、自分自身が巻き込まれたかのような苦痛を覚える。

 

 猛攻にすっかりへたり込むメルティングマンだったが、頭部を掴まれ無理やりにその場に立ち上がらせられたのが分かった。殴られた顔面は、元より判別がつかなかったが更に崩壊しており、殊更酷いものに映った。
 

 片方の眼球はせり出しており、顔半分は掻きまわされた残飯のようにクチャクチャにされていた。

 

「笑えよ、畜生っ!!」

 

 何かが飛び散る粘着質な音を聞いた。汁気を多く含んだ何かを潰した時特有の、実に嫌な音だった。

 

「や、……めてください、アンネ……」

 

 返り討ちにされる覚悟で、背後から彼の身体にしがみついた。アンネの荒い呼吸がこちらにまで伝わってきた。ヒイ、ヒイ……とメルティングマンが泣き伏せる声と、アンネの息遣いが重なってこちらの耳に流れ込んできた。

 

「もう十分です。そいつはとっくに戦意も殺意も喪失しています……それ以上殴り続ければ殺してしまう。我々の目的は殺害ではありません」
「ッ……!」

 

 メルティングマンはさっきまでの威勢は消え失せ、頭を抱えて亀のようになり震えていた。もはや何の力も持たぬその姿は、哀れを誘った。自分の声がきちんと届いたのか、アンネはしばしあってから、やがて追撃の為に挙げていた拳を静かに戻した。
 

 だが、その息遣いは未だに激しく乱れており、一度きちんと落ち着かせる必要がありそうだった。

 

「――、戻りましょう、アンネ。本部には俺が連絡を入れます、アンネはこいつの見張りをお願いします……」

 

 スミルノフが彼から離れ、落ちていた刀を拾いアンネに差し出した。アンネは、怒りとも悲しみともつかぬ表情と、極端なまでに震える指先でそれを受け取った。

 

――いや。大丈夫だろう、アンネがこいつの首を撥ねる事はない筈だ……

 

 スミルノフは刀を手渡した後、スマートフォンを操作する。自分の指先も微かに震えを帯びているのに気付いたが、果たしてこれが『どちら』に対する感情なのか今一つ掴めず眉をしかめた。……いや。恐らく、どちらも、か。

 


「相手が死ななかったのは幸運だったわね、今回」

 

 スカーレットは怒鳴りこそしなかったが、恐らくその内心では腸煮えくり返っている、といった具合なのだろう。彼女は毎回そうで、ヒステリックに怒鳴りつけたり汚い言葉で罵るような真似はあまりしない。陰では何を言われているか、たまったものではないが。

 

「一体、何故命令を忘れてそんな真似を? 貴方らしくないわねアンネ。つゆだくちゃんが生きていたから良かったようなものの、コレで殺していたとしたら……どうなっていたと思う?」
「……申し訳ありませんでした。言い訳をするつもりはありませんが、先に仲間の死を目撃してしまった矢先に相手から挑発をされ、僕も混乱して――僕自身、自分の力に過失していたんです。知略も技もない相手に負かされる筈がないと……」

 

 敗北を認めるかのようにアンネが述べると、スカーレットは更に深いため息をこれ見よがしに吐いて見せた。

 

「そうね。そもそも我を忘れて素手で向かっていくとは何事? もし、これで貴方の手が骨折でもしてみなさい。武器も持てなくなり、痛くて仕事が出来ませぇん……なんて寝言でも言うところだったの?」 
「その、スカーレット様……今回の件につきましては俺にも過失があります。傍で見ていた俺も咄嗟に動くべきだったんです、しかしまさかあのような強烈な見た目だとは思わずに後れを取ってしまい……」
「言い訳は一度聞けば十分よ。何にも動じないように、今日まで貴方達柴犬くんどもをしっかり教育してきたつもりだったんだけれども」

 

 この柴犬くん、というのは護衛達に対するスカーレットによる総称だった。どうでもいい事だが、これが女性の場合は柴犬ちゃん、に変わる。

 

「……もういいわ、下がりなさい。ハッキリ言って今日の柴犬くんには失望しました。挽回のチャンスがあればしがみついてでもこの汚名を返上する事ね……」

 

 アンネもスミルノフも、それ以上何か言い訳する気力さえも沸かなかった。
 部屋を後にした後も、しばし沈黙が続いた。アンネは暗い表情のままで、その廊下を歩き続けていた。何か言葉でもかけてやるべきなのかしばし悩んでいると、アンネがその歩行を一度止めた。

 

「……アンネ?」
「――恐ろしかったんだよ、あの時……」
「?」

 

 視線を俯けたまま、刀を持つアンネの手が隠す事もせずにはっきりと震えていた。だが、何故なのかそんな彼の姿に妙な居心地の悪さを覚える。庇ってやりたい、何か言葉をかけてやりたい、そう思うのだが同時にアンネが『恐ろしい』などと言葉に出すのは違うと反論したくなる。嘘をつくな、とも思う。

 

「一刻も早く戦いを終わらせたかった。とにかく怖くて悔しくて……」

 

 何故だろうか。彼の言う『恐ろしい』には狂気が混ざっているようにしか思えない。彼の言う恐怖というのが、自分が抱く怖さや世間一般の者が思う怖さと違うものに感じるのだ。
 

 いつかアンネは自分をどういう形かは分からないが、殺してしまう気がする。
 

 多分彼は殺すという意味もよく理解できない、あやふやなまま、相手の苦痛も理解できないままで、えっと、うん、そうだね、そうだった、とか何とか言いながら、自分を刺すか斬るかそれともさっきのように顔が変形するまで殴られるか――

 

「……分かっています、とにかく部屋に行ってその手を治療しましょう」

 

 外は激しく荒れていた。雨の日は、必然的に館を訪れる客も減る。よって、この時間帯は既に娼婦達も部屋にこもっている事が多いと聞いた。
 

 自室に連れて帰ると、雨の音に紛れて何か歌声のようなものが聞こえてきた。が、気のせいかと思い直し、それよりもと救急キットの仕舞われた棚を探した。

 

(ああ、疲れているんだな、俺は……)

 

 あんな事が立て続けに起きたせいで、少し神経が昂っているんだろう。よくある事だ。精神的に疲弊すると、正しい判断もできなくなるし、おかしな声を聴いたりもする。幻を見たり、夢と現実が曖昧になったりもする。
 

 それらを打ち消すには、大量の薬が一時の自分には必要だった。
 刑務所に入り、それらを強制的に止める事にはなったけれどあの時の感覚は今でも身体がハッキリと覚えている。

 

「――雨が酷いですね……」

 

 何となく呟いた言葉に、アンネはベッドに腰かけたままで小さく相槌を打った。彼の前にしゃがみこみ、腫れたその両手を許可なしに自身の手に取った。武骨な男のそれとは違う、ささくれ一つない綺麗な指先だ。そんな手に、痛々しい痕跡がいくつも残っている。

 

「僕は……僕は時々自分の事が分からなくなるんだ」
「え?」

 

 その手に包帯を施してやると、アンネがそんな風に話し始めた。ともすれば、独り言のような調子にも聞こえる口ぶりだった。

 

「自分が誰なのか自信がないんだよ。僕は……そう、僕だ。僕でしかない。アンネ=フィッツジェラルドでしかない筈なのに、僕は……」
「その……、色々あったせいで疲れているんですよ。今日は早めに休まれた方が――」

 

 歌声は消える事なく、流れ続けていた。
 雨が窓を叩く音と、遠くで響く雷雨と、歌詞のない鼻歌が辺りを支配していた。この歌声はアンネの耳にも聞こえているのか少し気になった。

 

「君はそんな不安を感じる事ってないのかい? 自分が本当に自分なのか、そういう……、類いの……」
 
 彼の言っている事自体は理解できるのに、何故か今の自分にはアンネがとてつもなく狂った言葉を吐いているように感じられた。

 

「とにかく今夜はもう、」
「スミルノフ、いつから君は僕に敬語を使うようになった?」
「え?」

 

 アンネはこちらを見上げながら、スミルノフの手をそっと取った。彼が本当に心の底から不安そうな顔をするものだから、スミルノフも何も言えなくなってしまった。アンネの指先は、やはり依然として震えたままだったから、突き放す事も出来なくなった。

 

「……君の……、本当の名前が知りたい」
「あ、アンネ……?」

 

 彼にどこか悍ましいものを覚えながら、同時に酷く安堵して解放されたような気に陥っている自分もいた。スミルノフはこの気持ちが何なのか、何か実態の持たない亡霊めいた気持ちの悪さが引っかかって、しかしアンネの手を振りほどく事も出来なかった。

 

――あの日。あの時から。初めて彼に出会った時の事を思い起こしながら、スミルノフはアンネの腕に爪を食い込ませていた。互いに血の匂いが染みついたまま、何をしているんだと思ったが、けれどそれが却って心地よく感じられた。
 アンネがどう感じていたのかは分からないが、スミルノフは久しぶりに性欲の匂いのしない接吻を交わした気がした。自分を悶えさせたり、興奮させたり、狂わせたりするようなキスとは少し違っていた。

 


「……しゃぼん玉、飛んだ」

 

 スミルノフが聞いていた歌声というのが彼女のものであるかは定かではない。
 しかし、キティーは部屋の中で一人、歌を口ずさみながらぬいぐるみの破れた腹を縫っていた。ガタガタの縫い目、ヘタクソな刺繍。閉じきらなかった布地からはみ出る綿が、何か一瞬だけ零れ落ちた肉片のように見えた。 

 

「……壊れて……消えた……」

 

 キティーの哀し気な歌声は、一晩中止む事なく続けられた。

#6

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