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#6-6 / スミルノフの首

 あんなにも色んな事が立て続けに起きていたのにも関わらずに、時は着々と進んでいくのが不思議だった。
 昨日の出来事。凄惨な死体の山。強烈な血の匂い。散らばった肉片や四肢、湯気の立った内臓。思い起こすだけでも身震いしたくなるような記憶としてスミルノフの脳裏に刻まれていたのにも関わらず、今日アンネと足を運んでみると、嘘のように綺麗に片付いていた。却って不気味になるくらいに、血の跡も匂いさえも(まあ、元々この付近は異臭があったせいでそれがうまく薄められているとでも言えばいいのか)その痕跡を、ものの見事に消していた。

「一滴さえ血も残されていません、ね」
「……流石はスカーレット様の采配だ。動きが早いね」

 

 独り言のようにアンネが呟いてから、辺りを見渡した。その横顔は、初めて会った時の事を思い出させる冷たいそれだった。無表情というわけでもないが、悲しみとも怒りとも驚きとも笑顔とも取れない、不思議な表情だった。
 

 心ここにあらず、というのが一番しっくりくるのかもしれない。そんな瞳に見つめられながら、とうとうスミルノフは正視しがたくなり目を逸らした。

 

「え、ええ……そうですね」

 

 何故か、言葉に詰まる。スッと声が出てこない。判断力を絡めとられてしまったように、スミルノフは視線を下げた。アンネは刀を握り締めたまま、一歩前へと踏み出していた。

 

「――しかしこれで街の脅威がなくなったわけではないさ、引き続き気を緩めずに警戒を続けていこう。またいつ何が起きるか分からない」

 

 アンネの方はと言えば特に何かを感じさせるような口ぶりや表情ではなく、やはりいつもながら冷静そのものでしかなかった。……自分ももういい年齢だ、やれ恥ずかしいだとか何だとか感じている余裕もないし、気まずいというわけでもない。けれど、何故か後ろめたさ――というと、大げさかもしれない。だが、とてつもなくそういう感情に囚われた。罪悪感もあった。

「アンネ」
「? 何だい」

 その気まずさを埋めるようにスミルノフの方から口を開くと、アンネはやはり何事もなかったかのように振り返り、只こちらを見つめた。

 

「……いえ、その……、お聞きしたい事があるんですが」
「何? どうかしたの?」
「――キティー様について、なんですけど」

 

 妙に口ごもりながら問いかけると、アンネが肩を竦めてこちらの言葉の続きを待っているみたいだった。

 

「この前、たまたまですが彼女が水を張ったバスタブに顔を突っ込んでいるのを見まして。慌てて引き上げたので、何事もありませんでしたが」

 

 話しながら、どういう状況なんだよ、と心の中で突っ込みを入れたくなってしまった。アンネは納得したように頷きながら、微かに微笑んで見せた。――昨晩、彼を抱いた時にも思ったが、アンネの目を見ているととにかく自分の事が分からなくなる。彼の瞳は赤い色をしていて、見つめているとそこには計り知れない、自分の手では掴めない何かが静かに息づいているように思えてくる。

「ああ……、以前もあったそうだよ。そういう事は」
「そうなのですか。――何だか彼女の場合、辛くてそういう行為に走ったのではなく興味本位からそのような行動に出たのだとその時言っていて。――何というか、少しショックでした」

 

 アンネがその言葉をどのように受け止めたのかは分からないが、彼は何故か意外そうに目を細めた。

 

「お兄様が亡くなられてからだそうだ、キティー様があんな風になってしまった原因は。……可哀想だね、もしあの子がここになんか来ないでそのまま成長していたのだとすれば、きっと別の道があったんだよ。とても頭のいい子だから」

――それは……、それは、スミルノフも同じように考えていた。似たような事を、あの時は考えた。あの器量であれば、彼女が夢だと語った小説家にだってなれただろう。もしかすると、もっと選択肢もあったかもしれない。

「だけどスミルノフ」
「?」

 

 そう言って振り返ったアンネは、少しだけ目を細めた。

 

「あまり深く考えるなよ。そうやって胸を痛めているうちに、段々と情が移って悲惨な事になるんだから」
「――そんな事……」

 

 馬鹿らしい、と笑い飛ばすスミルノフにもアンネはしばらくその視線を剥がさなかった。生きている心地がまるでしなかった。……この射るような眼差しが、自分から正気を奪うのだ。気が気じゃなくなったように、スミルノフは早まる心臓の鼓動を聞きながらあらゆる感情と共に唾を飲み込んだ。

 

「分かっているなら、いい。一応警告しただけだ、中には浅はかな考えを持つ者もいるようだから」

 

 アンネが再び正面を向いた事で、自分にかかっていた呪縛が解けたように動く事が叶った。知らずのうちに自ら呼吸を止めていたらしく、ほぼ同時に息継ぎする事が出来た。

 

「男って本当に馬鹿だからさ。身体と頭が別々に出来ているようなものだよね」

 

 何故かその言葉は自分に向けられているように感じられて、背筋がぞっとするのを止められなかった。まるで声帯そのものを奪われたように絶句していると、アンネは小首を傾げつつこちらを覗き込むような調子で声を掛けてきた。

 

「どうしたんだい? 戻ろう、もうそろそろ昼の時間だ」

 その日の晩は、特に冷え込みそうだった。――冬の気配も、もう遠くはない。ここ数日のうちに雪がちらつく事も予想されている。

 

 キティーの部屋を訪れると、彼女は椅子に座り一心不乱に何かを書いていた。声を掛けるのはやめておこうか悩んだが、しかし悩んでスミルノフは数歩程踏み出して彼女の前に立った。

 

「……また執筆作業か?」
「そうよ」

 

 無視されるかと思いきや、キティーは原稿と思しき紙に夢中でペンを走らせながら相槌を打った。

 

「その……どんな小説を書いているんだい? 恋愛ものか?」
「推理小説」
「へえ。――あ、まさかそれで人が死ぬから、『死に方の研究』を?」

 

 苦笑いを混ぜつつ問いかけると、キティーは特に反応も示さずにやはりペンを動かすだけであった。まあ、答えてくれただけでも、良しとした方がいいのかもしれない。スミルノフはそんな彼女を見つめつつ、ほんの少しだけ肩を竦めたのだった。

 

「今日はもう、仕事は終わったのか」

 

 キティーからの答えはなく、彼女の集中力を欠く事になったり貴重な時間の妨げになるのも悪い気がしてきた。……年頃の娘に冷たくされる父親の気持ちをちょっぴりだけ理解して、背を向けて立ち去ろうとした時であった。

 

「ねえ」

 

 彼女の方から呼びかけられたので、スミルノフは足を止めて振り返った。返事する代わりにキティーを見つめ返すと、彼女は一度ペンを置き改まったように問いかけてきた。

 

「貴方は、死にたくなった事ってないのかしら」

 

 心底不思議そうに尋ねてくるキティーに、スミルノフは少し苦笑いに近いような顔をしていた。

 

「――あるよ、何度も」
「まあ、ほんとに!?……でも、一体どうしてそんな風に思ったの?」

 

 目を輝かせながら、キティーは実に興味深そうに聞いてくるのだった。その調子と来たら、過去の恋愛話にでも花を咲かせているかのような年頃の娘でしかなかった。

 

「……大事な人を亡くして、それで何度か――彼女達と同じ場所に行きたくなってね」

 

 それは答えというよりは、半ば独り言に近い感じだと話しながら思った。キティーはそれを聞いてどう感じているのだろうか? この話をする時は、毎度そうだが言いながら身体中が空っぽになっていくような気がしていた。

 

(だけど、それが出来ずにこれまでを生きてきたんだ)

 

 そこだけは何となく伏せておいて、スミルノフはふっとため息を漏らした。それから、何となくキティーに聞いてみたかった言葉をこの際だと思い口にしてみた。

 

「なあ。君は、その――街の外に出てみたいとは思わないのかい?」
「別に思わないわ」

 

 ほとんど即答に近かった。キティーはいつもの心底興味のなさそうな顔つきへと戻ると、首を横に振った。

 

「だって外の世界には怖い人がたくさんいますもの。……キティー、ああやってもう殴られるのだけは嫌。それに比べたらここの人達の方がずっとずっと好きよ」

 

 キティーがここまでをどうやって生きてきたのか、恐らく自分には到底考えられないような場面を幾度も潜り抜けてきている事は伺えた。不幸の重たさを他人と比較するなんて馬鹿げているけど、彼女はきっと自分と比べて『どちらの方がマシか』という状況が多かったのだろう。

 

「……でも死ぬって、結局どういう事なのかしら。自我のない状態を考えようとしても答えが出ないの」
「――」
「夢を見ないで眠っている事がたまにあるけど……。夢を見ずに、長い間眠り続けている時の気持ちが、死ぬ、という形に近いのかしら。死んだら魂はどうなるの? 天国があると思うのは、キティー何だか嫌なの。けど、死んだら何もなくなってしまうのは虚しいわ」

 

 自分の意思をひとまとめにするのが難しく感じられたが、スミルノフは何故か涙を流したい気持ちになった。……二度も彼女の前で泣くわけにはいかなかった。それでふっと、先程アンネと交わした会話を思い出していた。キティーにはもっと別の未来が与えられた筈だという、そんな話を。

 

「――じゃあさ、その……」
「?」
「もし、俺とここを出て。悪い人が誰もいない――君が誰にも邪魔されず、静かに小説を書いていられる場所へ行けるとしたら……君はどうする?」

 

 さて、何と言おう、と考えた瞬間にその考えとは別に自分の口からは平凡な言葉がツルツルと飛び出していた。
 

 俺はどうしたんだ。何を言っている? 何を言いたい、この子に?

「……でも、駄目だわ。そんな事をしては、お兄ちゃまとまたすれ違ってしまうかもしれない……」

 

 君のお兄さんはもういない。君もそれを知っているのに、受け入れようとしていないだけだよ。
 だけど、自分には彼女の気持ちが痛い程に分かった。彼の胸の中に何か言いようのない悲しさが込み上げてきた。

 

「分かった。……一緒に探そう、君のお兄さんを探して……、そして……」

 

 それ以上はやめろ、と自分を押し止めたかったがスミルノフは止める事ができなかった。

 

「一緒に暮らそう。――俺と、君と、お兄さんで……」
「!」

 

 キティーが目に見えて驚いたように顔を持ち上げた。

 

「……お兄ちゃまと……?」

 

 ここを出る、という部分よりは『兄と』という部分に彼女は酷く反応を示したようだった。もう、この世には存在していないというその兄のまぼろしに。……スミルノフは目頭が熱くなるのをぐっと堪えて、精一杯に笑った。

 

「ああ。必ず探し出そう」
「本当に? 本当にお兄ちゃまと、会えるの?」

 

 全身の力が弛緩したよう、スミルノフは心だけがその場から逃げ出したような感覚に囚われていた。昨晩のアンネの事を思い出していた。――俺はまだあの場にいる。アンネと共にシーツの中でまどろんだまま、夢からずっと覚めてない。いや、或いはそのずっと前から、そうなのかもしれない。

 
 
 マリオ=ゴードンは今年で六十八歳になる、サロの街から積み荷を配達している男だ。元々はこの街で働いていたようだが今は再雇用という形で働いている、との事である。その年齢ならばもう定年退職をしている筈だが、彼にはどうしても働き続ける必要があった。理由は勿論、賃金を得なくてはいけないからである。

 

 具体的に言えば、マリオには癌で闘病生活を続けている妻がいる。
 少しでもいい医者をつけ、効果的な薬を与え、より良い治療法を考えていかねばならない。その為には少しでも、一円でも多くの収入を欲していた。

 

 スミルノフが周囲を軽く見渡してから、マリオに近づいた。
 
「失礼。今、少しだけお時間いいですかね」
「? 何でしょうか」

 

 マリオは丁寧な男で、目上の者には勿論だが下の者にも腰の低い穏やかな口調で話す。スミルノフは再度周囲の目がないのを確認すると、気持ち声を潜めるような調子でマリオに言葉を続けた。

 

「昨日――いや、具体的にはここ数日、街で起きた事件の話については聞いていますか?」

 

 それを聞いて、マリオはしばし考え込むように遠い目をさせた。すぐに反応は返ってきた

 

「――ああ。直接の詳細は聞いていませんが、皆さんがお話ししていたのをチラッとは……」
「だったら話が早いですね。……端的に言って、警備を強化した――と、思っておりまして。不審な荷物等が紛れないように、集荷前は勿論ですが、更にその直後に我々がもう一度チェックを行います」

 

 納得したように、マリオは何か特別な態度を出すわけでもなく静かに視線を向けていた。

 

「その……それで参考までに聞かせて欲しいのですが」
「ええ、何かございますか?」
「過去に――これまで、積み荷の中に何かが混ざっていた事は? 例えば爆発物や刃物……」
「ああ、知っているとは思うが私達が点検前に一度入念な荷物の確認がありますから。危険物は、私達の手元に来る前に大概処理されていますよ」
「――、成程。そうでしたか……じゃあ、例えばですけど。その積み荷に混ざって『人間』が出入りしたような事は?」
「まさか! そんなもの、すぐにばれてしまって無理ですよ。途中に検問もありますし、無謀というものです」

 

 マリオが大袈裟なくらいに言って身を竦ませた。スミルノフは眼鏡のフレームを持ち上げつつ、しかし無表情を取り繕いつつ呟いた。

 

「しかし、娼婦の中には小さな身体の女の子もいますからね。十二、三歳くらいの少女一人くらいならどうでしょう? また話は違うんではないでしょうか」

 

 その問いかけに、マリオがて眉根を顰めてこちらの意図を探るように見つめ返してきた。

 

「――けれど、私が脱走の手引きをした事は一度もありませんよ。もし賄賂金を出されても同じです、目先の金額だけで今職を失うわけにはいきませんから」

 

 成程、噂に聞いていた通りだ。
 スミルノフは確信を持ったように内心で頷くと、もう一度眼鏡を掛け直しながらマリオを再び見つめた。――だが、こういうタイプの方が案外融通が利いたりもする。なまじ言葉で説得するよりも、動かしやすいかもれない。

 

「……そうですか。それは大変失礼をしました、何だか疑うような事を申してしまいすみません。なにぶん、時期が時期なものでして」
「いえ、滅相もない。私があなたの立場でも同じように対処すると思いますよ」

 

 恐らく不快に感じただろうに、年の功というそれなのかマリオはそれを実に軽やかに受け流した。負の感情を露わにもせず、マリオは背を向けて仕事の続きを始めたようだった。スミルノフもその場を去ろうとした間際で、マリオの方から声がかかった。

 

「――あの、一つよろしいですかね」

 

 背を向けたままで、マリオは会話を続けた。

 

「くだらない老人の戯言だと思って聞き流して頂いて構いません」
「……、何でしょうか?」
「――あまり妙な事は考えない方がいいですよ、貴方はまだ若いんですから」
「…………」

 

 怒るのでもなく、たしなめるのでもなく、マリオはやはり穏やかな口調で言った。

 

「私のような老い先短い人間とは違って、貴方にはまだ沢山の時間がある。それをどうか、無駄に過ごされないように願いたいのです」

 

 それを聞いて無性に、それは違う、と反論したくなりスミルノフは何か言いかけた。しかし、マリオは言葉を切る事なく続けた。

 

「ここにいて実に多くの人間を見続けたけれど、居場所のない人間は野良犬のような目をしている。……だけど貴方はまだ、一縷の希望に縋っているように見える。その希望の意図を履き違える事のないよう、よく考えるべきですよ」

 

 何故かその言葉に打ちのめされて、スミルノフは出かかった言葉を押し戻した。それから、雪の気配もちらつく灰色の空を見上げていた。――この街の外には、違う世界がある。この空が、同じ世界のものとは今の自分にはとても思えなかった。

#6

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