#6-1 / スミルノフの首
『仕事の内容は至って簡単だよ、スミルノフ君。君が以前に就いていたような職業とほとんど変わりがない。だからここでの説明もきっと円滑に進むだろう――何か質問があったらどんどん聞いてもらって構わないよ。……まず完全会員制になっている点については事前に聞いていると思うけど……』
この街には日中問わず、いつも何とも言えない匂いが漂っていた。きつい香水や化粧の香り、汗やら酔っ払った人間の酒臭い息やら、人々の醸し出す体臭、ほぼ一日中経営している居酒屋から流れてくる料理を煮込む匂いや、淀んだドブの匂い。歩けば歩くほど、街の奥に向かえば向かう程、汗と精液と、虚しさと欲望の入り混じった途方もない香りがする。もし性欲に匂いがあるだとすれば、きっとこれなのだろう。
暗黒都市。不気味な色彩で輝くビル群、降り続ける酸性雨、煙と霧と光、漢字やカタカナの入り混じるネオン看板、芸者が大きく映るヴィジョン広告、薄汚れた雑踏。某国が連合国に敗北し、降伏した後からこの暗黒街『サロ』の歴史は始まると言われている――元々このサロは少数民族達が移り住んでいた自治区であった。
終戦後、壊滅的なダメージを受け秩序の崩壊した我が国は無法地帯となった。本来ならば治安を保護する筈の兵士達は皆、民衆を守るどころか傍若無人だった。勿論、多くの強盗が発生した。民家に押し入っては、時計や万年筆、鏡などの貴重品を手当たり次第に略奪したが、抵抗すると理不尽な暴力が飛んでくる。何も出来ず、民衆は只黙って見ているしかなかった。
殺人も強姦も、もはや日常茶飯事だった。多くの若い女性は髪を短く切り、作業服や汚れた格好に身を包み男のふりをしていた。その記憶も未だ生々しく残り続ける今、国が提供したのがこのサロという街であった。
残党であるファシスト共はこの街に集まり、亡命政権を形成していた。傀儡政権の権力者達は、自らの快楽の為、市町村条例を新しく制定する。その規定に従い、持病のない健康な若い身体の男女が数名集められた(彼らは皆私設孤児院より有償で連れてこられた身寄りのない子達と言われているが詳細は不明)。
先の事件のような暴動、強姦、殺人を永久に防ぐ意味でも性的欲求・破壊衝動の抜本塞源として『国が存在を許す歓楽街』の提供を促した。飲食店、パチンコ店などのギャンブル店は勿論の事、クラブやキャバレー、ストリップ劇場、表では手に入らない映像を取り扱う店、大人向けの玩具屋、売春宿などの風俗店が軒を並べ、そして一番権力を持つのが街の中央に位置する高級娼館の存在であった。
今や政財界、官界の大物が入り浸るようになったその娼館では、街の全ての権力を有する娼婦達が集っている。サロにいる以上、彼女達がルールであり、従うのは当然であった。
「――赤い靴、履いてた……」
ここの法律は『警察』でも『国』でもない。ここでの法律は、美しく冷酷な女達――主にその権限を持つのは、高級娼婦達だ。ルールを守る者には夢のような思いをさせてくれるが、もし逆らえば命はない。彼女達は先に書いたような政治家や財界人などの有権者達を虜にし、味方につけている。自由と引き換えに、一般の市民が汗水を垂らし働いたところで一生得る事の出来ない贅沢と、身の保証を約束される。
だがその“契約”も客側の信用を失えば一瞬にして荼毘に付される為に、彼女達にとってそれが最善の幸福であるのかどうかは誰にも分からない。
その証拠に、この護衛部隊に配属されてから様々な状態の女の姿を見る事が多かったからだ――、
我々部隊の主な任務は娼婦達の身辺の安全を確保し、誘拐や暴漢などの脅威から守り、街の警備及び間諜の摘発等を主とする。いわば、平たく言って護衛である。娼館より直々に雇用されている私兵の集まりだ。こう呼ぶとどことなく聞こえはいいが、集まっているのは放火や殺人で手配中の者、脱獄犯、訳ありで表の世界では働けなくなった者、ヤクザな稼業から足を洗おうとしたが結局また戻ってきた者――社会から弾かれた経歴を持つ者ばかりが集められていた。いつ死んでもいいような、しかし腕っぷしと度胸だけは立つような武闘派でなくてはこの部隊は務まらなかった。立派な学歴や輝かしい職歴、これまでにどのっような努力をし、またどのような評価をされ、そしてどのような結果を残してきたのか……そんな模範生のような実績なぞ、ここには必要とされなかった。
「……女の子……」
濁った雨の降り注ぐ街を裸足で歩くのは、まだ十四歳にも満たないくらいの少女だった。虚ろな目つきと足取りで、少女は消え入りそうな声で歌を口ずさみながら人々の視線を次々に奪っていった。
「見なよ。“街の女王様”が今夜も一人で散歩中みたい。歌まで口ずさんで、今日は随分とまた上機嫌じゃない?」
「――毎晩毎晩ああやって相変わらずだこと。ほんっと何考えてるか分かんないわー、あれがこの街で一番の売れっ子の実態って中々に笑えるよねェ」
「ま、初めて見る客は大抵ドン引きするけどそれが普通の反応よ。あれに比べたらアタシ達がいくらかマシに思えるから不思議よね……あ、ホラッ。見なよ、あのリーマンっぽい僕ちゃん。見るからに慌てて必死に目逸らしてるよ。ぎゃははっ、ウケる」
口々に噂するのは、着飾った若い娘達だった。彼女達もまたこの街で働く娼婦であり、客を取る為にこうして街の中に立つ。
良さそうな相手が来るのを待ちながら、暇になると次第にこんな風に私語を話し始める者もいた。――恐らく彼女達は『公娼』、すなわちこの街のどこかにある風俗店で働く女だと思われるが――時々、『私娼』と呼ばれる公認でない売人も混ざっている事もあった。正式に働く許可のない、商売をする店を持たない立ちんぼという売春婦。
彼女達が抱える事情はそれこそ様々だったが、こういった存在を取り締まるのも任命された仕事の一つであった。
「……ぶっちゃけいかれてるよね。あの子」
蔑むような声と共に一人がケラケラと笑った。明るい髪に小麦色の肌、全体的に露出の多い服装にかかとの高い靴。随分と濃いメイクが年齢の特定を阻んでいた。それでも二十歳には届いていないように見えた。
少女は煙草を咥えながら、慣れた手つきと共にライターで着火する。
「バッカおめー、声おっきいっつの。つーか狂ってんのはアレだけじゃなくて“その周辺”もでしょ?」
「ま、きっと頭おかしくなきゃあんな奴らの面倒なんか見てらんないんだよ。めんどくさそうな奴多そうだし」
「……でもいいよねー。住居の約束はされるし食いっぱぐれる事もなければメイク道具も服も靴も全部いいものだって与えられて当然っ、てなわけなんだからそれって最高じゃない。噂じゃあ上に行けば行くほど客も選べるって話だし、クソ客はパスできるんでしょ? あたしは羨ましいけどなあ~」
「アッハハ、わかるー。口臭きついオッサンとかまじ相手すんの無理だよねー。けどあの地位にまで行くには頭も良くなきゃ無理だしねえ」
「おかしくなきゃ無理、の間違いじゃーのかよ」
こちらの気配に気付いていないのか、彼女達は悪びれたり声のボリュームを控えたりする事もなく甲高い声で笑いあった。本人たちにしてみればくだらないジョークのつもりだろうが流石に目に余る。嗜めようと行動に出ようとしたが、何故か躊躇してしまった。
彼女達の吐いた先の言葉が何故か酷く突き刺さり、そのくだらない筈の談笑に胸が潰れる。思わず目が眩みそうになった。
(そうだ。……俺達はみんなおかしい――マトモじゃないんだよ)
開き直るようにしてから、改まったように考え込む。そう言い聞かせる事で、『自分は落ちぶれていない』とでも思い込まなくては心の均等が保てない自分がいた。彼女達の言葉によって、見て見ぬふりをしていた事実を掘り起こされた。抉られそうになりながらも歩き出すのを決めると、しかしやはりそこから先の歩行をやめてしまった。怠惰になったわけではない。二人の女達の背後には、もう既に別の影が迫っていたからだ。
風俗を生業にしている女達よりも高い露出に、派手な色合い。金髪の二つ結びに、濃い化粧。間違えようもなかった。同じく娼婦の護衛を務めている少女――いや、もう女性と呼んだ方がふさわしい年齢だった筈だ。
「今のはリリーへの侮辱も含まれていた。お前ら一体どこの店だよ、この色ボケ女ども」
それまでバカ騒ぎをしていた女二人の顔が、途端に目に見えて引きつった。もはや笑いの気配など微塵にも残さず、二人は青ざめながら距離を取るようにして後ずさった。このリリーことポイズンリリーは、ぶっちぎりで話が通じない事でも有名で一番厄介な存在として知られていた。街にやってきた男の多くは、大体がその抜きんでたスタイルの良さと扇情的な服装に振り返り、何よりも整った美貌に目を惹かれて一瞬にして心を奪われる。しかし残念ながら彼女は娼婦ではなく、れっきとした街の用心棒だ。
リリーは自分を風俗嬢に間違われるのを何よりも嫌っていた。というよりも、男からそういう対象として見られる事そのものを『気持ちが悪い』といって心の底から嫌悪しているみたいだった。ならばその下着のようなファッションセンスをどうにかすればいいのに、とは誰しもが思うのだがそれが彼女の好みなのだとすれば全否定はできない。というか、暴力という名の行使によって押し切られてしまうのだから適う者はいないのだった。
「あ、あ……ち、違いま……私、別に……何も……」
「て・てめぇっ、一緒になって馬鹿笑いしてた癖に何寝ぼけた事、」
「生憎だけどリリー、地獄耳なんだ。ごまかそうったって無駄だぞこのブス」
ロリポップキャンディーを咥えながら、リリーは片手に持った武器(通称、ぶっ殺バット。キラキラとデコられた乙女な装飾も彼女のセンスによるものなんだとか、どうとか)をチラつかせ半ば可笑しそうに迫った。その笑顔には、何ともサディスティックな美しさを伴っていた。
「おい!!」
ようやく意識が戻ってきて、慌てて二人と一人の間へと。丁度その真ん中に割って入るようにして飛び込んだ。何が起きたのかと、興味半分関わりあいになりたくない半分、といった具合の周囲の胡乱な目つきが通り過ぎていく。
「トラブルはやめろ、客の目に触れたら営業停止になりかねないんだぞ」
極めて当たり前の言葉を吐くと、リリーはバットを眼前に突き出して挑発するように言った。その目つきは酷く冷徹で、さっきまでの獲物を追い詰めたような好奇さは消え失せ、興味のない玩具を眺める子どものようであった。
「男の分際で指図すんじゃねえよ。どけ、クソ眼鏡。捻り潰すぞ温室育ちが」
「……やれるもんならやってみろよ、それに俺の名前はここでは『スミルノフ』だ。いい加減覚えてみろよ、まさかそれも出来ない程の知能なのか?」
リリーが心外そうに顔を歪めた瞬間に、もはや完全に揉め事の流れはこっち側に向いてしまったのだと知る。
心臓が激しく暴れ回っていた。リリーは怯む事なく、こちらから目を逸らす事はない。――固唾を飲んだところで、また新たな第三者が訪れた。
「こんな場所で何をやってるんだい、二人共? 君達の仕事内容は『街中で人目も憚らずに喚き散らす』、『任務も忘れて仲間同士で口論し合う』事……だったのかな」
リリーの方はその態度を崩さないでいたようだが、こちらはそういうわけにもいかなかった。慌てて向き直り、その声の方へと、恭しく起立し直した。
「スミルノフ、君にしちゃあ随分と冷静じゃないね。どうかしたのか?」
「あ、アンネ……」
すぐに動けなかった自分を疎ましく思いながらも、同時に安堵していた。名を呼ばれ、顔を上げるとすぐ傍にアンネ・フィッツジェラルドがいつものように武装した状態で待ち構えていた。そしてこの大層な装備でもある刀は、彼の代名詞のようでもあった――アンネはこの部隊では一番腕の立つ青年だ。そして一番話が分かる、まともな人物でもあった。
「……あ、い、いや……その、すみませんでした」
「リリー、君もだ。ついこの前も騒ぎを起こしたばかりだろう、もう少し自分の立場に責任を持つんだ」
いっぱしな事を言うが、どう見てもアンネはまだ二十歳にも届いていないくらいの年代だろうと思った。リリーより少し年下くらいだろうが、精神年齢だけならばよっぽど彼の方が落ち着いて見えたし、彼がこの隊をまとめる役割を任されている理由がよく分かった。
アンネはどちらかと言えば穏やかで、露骨な感情を殆ど顔に出さないストイックな性格の持ち主だった。刀なんかを持っているより、ティーカップでも持って本でも読みながら優雅に陽の光でも浴びている方がよっぽど似つきそうな育ちの良さが滲み出ていた。そんな彼ではあるが、剣の腕前はどこで学んだものなのかおよそスポーツのそれとは言い難い太刀筋を身に着けているのを知っている。リリーもそれを承知しているのか、アンネにはあまり逆らわずに面白くなさそうにいつも身を引く。
「あん時は酔っ払いがリリーに絡んできたからやっただけなのに。リリー、言われた通り街の美化に貢献してやったんだぞ」
「……大方何があったかは予想がつくが、君達も勤務中だという事は忘れるなよ。この街全体で一つの会社のようなものなのだから、イメージが悪くなれば君達の名前だけじゃなく店そのものにも傷がつきかねない」
アンネのような穏健派がどうしてこんな血の気の多い連中共の巣窟に派遣されたのかは誰も知る由もない。肉体派が揃う部隊の中ではただ一人、生真面目で世話焼きで、こういったうらぶれた連中の将来や身辺を案じ、聞き流せばいいような言葉にも耳を傾けてくれた。
「アンネちゃんは相も変わらず甘ぇよなー。そうは思わないかい? スミちゃん、リリーちゃん」
「うるせぇ。気安く名前呼ぶんじゃねえよ、ザコ」
軽い調子で近寄ってきたのは、アンネの直属の部下でもあるエリーだ。女のような名と、やや中性的な容姿をしているが立派な男である。アンネとは同い年くらいなのかもしれないが、こちらの方はまだ年齢相応のあどけなさが残っていて憎めない一方では、少し直情的な部分も目立つ。
若さ特有の短気さが、却って普通の事のように思えて微笑ましくすら感じられた。
「おぉ。コワッ!」
「……あいつ、少しおかしいんじゃないんですか。俺が言うのも何ですが」
「顔と身体は最高なのになあ~、勿体ないぜ」
エリーのこういう軽口に対し、アンネは意外にも笑って受け入れたりするのが不思議だった。もう少し冗談の通じない性格なのかと勝手に思い込んでいただけに、当初は違和感さえ抱いたくらいだったがどことなくエリーだからこそ許せるという部分もあるのかもしれない。
「ともかく詳しい話はスミルノフ、君から後で僕に話して貰えるかな。まずはキティーが無事に部屋に帰っているか確認よろしく頼むよ」
「え、ええ。了解いたしました」
もはや説明するまでもないと思うが、キティーというのが先程の『イカれている』と悪口を叩かれた例の少女だ。……僅か十四歳にしてこの街を統べる女王、だがその精神はとうに崩壊している。何か彼女をあそこまで蝕んだのか。寄ってたかって彼女から根こそぎに奪ってしまったのか。どうして誰も与えようとはしなかったのだろうか。――抜け殻のようになってしまったキティーを、自分は、スミルノフは『イカれている』等とはとても思えなかった。只ひたすら、哀れだと思っていた。
(……可哀想に)
それは自分にかつて、妻がいて、子どもがいたから感じるのだろうか。かつて、と過去形にしたのには勿論きちんとした理由がある。もうその二人は自分の元にはいないからだ。望んで離れたわけではない。不慮の事故、というやつでいなくなってしまった。――あまり思い返したくはない出来事だった。
『スミルノフ君。勿論分かっちゃいると思うが、彼女達は娼婦である以前に人間だ。性格や癖は本当に様々といる。仕事柄、ストレスも多いんだろう。急激な体調悪化や、精神面においてのケアには常に気を配った方がいい――これには傾向もパターンもあれこれとあるが他人にその不満をぶつける者。これはまだいい、そのはけ口に率先して君達が名乗りを上げろ』
『どのように……ですか? 参考までにお聞かせ願えませんか』
『そうだな――まあ、君のように甘いマスクがあれば若い女であればすぐにでも心を開くだろうな。私が君ならそこをうまく利用するところだが』
『あはは、お世辞をありがとうございます』
『これは冗談じゃないぞ、スミルノフ。見た目は大事な問題だ、それも異性が相手なら尚の事。――ただしこれだけは言っておく、娼婦達と密通がばれたらどうなるか……その辺りは覚悟して頂きたい』
『……』
『女と言えども相手は商売女だ。それも単なる市民相手の女達ではない、どれも皆医者――弁護士――大企業の経営社長――芸能関係に有名ジャーナリスト、政治家や財界を動かす大物達で顧客は二千を軽く越える。これが表に出回ったらどうなるか……』
カチャン――と、グラスに注がれていた氷が溶けた音が一つ響いた。
『君も想像がつくはずだろう。この情報を漏らす事は、すなわち死に等しい。――そんな危険な女共と火遊びなんかしてみろ、本当の意味でお前の首が飛ぶぞ。死神アンネがどこまでもお前を追いかけてその首を切りおとす!……ぶははは、うひひ……』
『そ、その、話を戻しても? ええと……娼婦達の行動パターンについて、です。彼女達のメンタルケアはどのように行えば? 人に当たるよりもっと最悪のケースとは何なんでしょう。自分は専門分野ではありませんし――』
『ああ、コホン……ふむ。もう一つは、自分を傷つける自傷型のタイプかな』
『いわゆるリストカットとか、煙草の火を押し当てたりとか……そういう感じですか?』
『まあそれも含められるけど、薬を多用していたり、時には飛び降りようとしたりな。専属のドクターが出している精神薬と睡眠薬は極めて弱いものを決まった数量しか投与しないから、飲みすぎによる自殺の可能性は――まあ、ないとも言い切れないが最近は起きていない』
(最近は、……って、つまり……)
じゃあ過去には事実があったという事なのだろう。これを聞いて、高級娼婦というのが決して女達にとっての幸福というわけではない――そう、幻想を抱きすぎていた事に気付かされる。
『特にキティー様には要注意しろ』
『あ、ああ……はい。いつもお外を徘徊されているとお聞きしました』
『仕事が終わるといつもああだ。ああやってむしろ自分の精神を落ち着けているのかもしれないが、あれはもう相当病んじまってて手遅れってやつよ。普通になる見込みはほとんどないから、おかしな行動だけ起こさないかどうか見ててくれればいい』
(そんな……、まだあんなに小さな子じゃないか。そもそもこんな場所から離れさせてやれば回復もするんじゃないのか? 俺には口出しできる権限なんかないけど、さ……)
本当に何もかもが罪深き街。世界の罪を全て背負っているのではないかというくらいに。何だか脳にコールタールでも流されたかのように鬱屈した足取りでキティーの部屋の前にまで向かうと、彼女は戻っているのかどうなのか――扉は閉まりきっていたが妙なものを見つけた。
「……水……?」
彼女の部屋の扉の下から、チョロチョロチョロ――と水が流れ出てくるのを確認し、足を止めた。間違いなくキティーの部屋から漏れている。さっきの話からのコレだったから、余計に慌ててしまいスミルノフはその扉を力いっぱい殴ってしまった。
「おい! 何をしているんだ!」
もしもの時の為に鍵は持ってた。慌てて開くと、ムワっとした熱気が部屋の中から飛び出してきた。部屋の中央、備え付けのバスタブに水を一杯に浸し、そこから水が流れ出ているのは分かった。問題はそちらよりもむしろ、水面に顔を突っ込んだまま微動だにしない少女の後ろ姿だった。
「キティー様!?」
こちらに背を向け、床に座り込むようにし、キティーは顔面だけをバスタブの中に突っ込んでいるようだった。呼んでも、ずっと顔を上げない。どのくらいそうしていたのかは分からないが、ともかく生きているだろうか。それが先だ! 小柄な彼女はあっさりそこから降ろす事が出来た。水を大きく吸い込んでいるようで、気絶しているのが分かった。
いつもは雪のように白い彼女の顔に、熱により血の色が差していた。
目を閉じたままのキティーの頬を何度か叩いてやると、キティーはやがてうっすらをその目を開いたのだった。それから咳き込み、飲み込んでいた水を一つ吐き出した。
「い……生きていたか――」
ひとまずほっと胸を撫で下ろす。
「おい、大丈夫なのか? 自分で立てる? 何か変な症状はない?」
「何、も――。ッ。げほっ! げほっ!」
言いかけてからキティーはその場で激しく水を吐き出し始めた。むせ込みながら、キティーは両目に涙を浮かべて咳き込んでいる。
「ったく、何でそんな事しようとしたんだ? 自殺でもしようとしたのか」
軽い冗談のつもりで問いかけたが、キティーは意にも介さず目も合わせず、しれっとして言うのだった。
「覚えてないわ」
「……?」
「何をしていたか覚えていないの。私、何をしていたの? 今」
何とまあ、逆に尋ね返されてしまい。……ううむ、こちらが混乱してきてしまった。
「お気に入りの着物が濡れているわ。どうしましょう――お兄ちゃまの好きな和服でしたのに……ああ、ドレスに着替えなくちゃ……」
「あ、あ、あの……いや、このバスタブに君が顔を突っ込んでたんだよ。何でそんな真似を?」
「……。もしかしたら、キティー……またやっちゃったかしら」
「な、何が?」
キティーが虚ろな目で指した先にあったのは、大量の薬の殻だった。拾い上げると『ゾルビデム』『デパス』『メイラックス』……確かどれも向精神薬のものだ。自分が一時期心療内科にかかった際にいくつかもらった薬があった。
「たくさん飲んじゃうと、記憶がなくなるのよ。覚えてないの。何を言ったか、何を書いたか、何をしたのか、何を食べたのか。その後の記憶がなくなってしまうの――ああ、そうだわ!」
突然何かを思い出したように、キティーはズブ濡れの和服のまま立ち上がる。手を叩き、彼女は自分の机の上に戻ると、描きかけの日記帳のようなノートを開いたのだった。
「物語の続きを書きたかったの。お薬を飲むと、頭が冴えるから。それで、人が死ぬ場面があるから、どんな風になるのかなって思って。そうしたら体が勝手に動いて、キティー、死のうとしてたみたい」
「…………」
何が何やら。壮絶なその説明に絶句していると、キティーはまたバスタブに近づいていき「何が悪かったかしら」と独自の見解を述べ始めた。嫌になったから死んだというわけではないようだ。小説のネタ探しに、死ぬとどうなるのか。それを彼女なりに知って見たかったのだと。つまりはそういう事だろうか。――……。
「いいか。死ぬにはもっと楽なやり方があるんだぜ」
「……、どんな?」
「……教えてやらないけど、考えておくんだな。俺からの宿題だ。とにかく今日はもう寝るんだ、いいな」
「――分かったわ。でも宿題の答え、明日必ず教えてね」
「ああ、勿論。とにかくもうおやすみ」
――まったく何て女だ、ぶっ飛んでるとは聞いちゃいたがここまでだとは……いやはや予想外だなんて思わない。この街に来た時から、覚悟はしていた筈だが。