#6-3 / スミルノフの首
スミルノフがここへきてほぼ二年が経過しようとしてた。――それで、アンネも自分とほぼ同じ時期に配属された。自分がここへ送られる事に決まった時、話は恐ろしい程に早く進んだ事を覚えている。
刑務所の中において模範囚だったスミルノフの元に、ある日突然その話は持ち込まれた。減刑と引き換えに『黒蜥蜴の館』で働かないかと。
「男娼になれっていうんですか? そういう趣味は俺にはないですよ」
「勘違いしないで頂戴、うちで身体を売っていいのは二十五歳までの健康な素体に限るわ」
面会を希望してきたその女性がスカーレット本人であった。刑務官が彼女の葉巻に火を点けている姿が何だか不気味なものに思えて、ともかく逆らってはいけない存在なのだとこちらに分かりやすく伝えていた。
「名前も履歴も変えて、新しい貴方としてうちに来なさい。貴方のような優秀な男がこんな陰気な場所で燻っている場合? それこそいつか男にケツを掘られる事になるわよ、貴方みたいな見た目をしていたら。……まあ冗談はさておきに」
スカーレットは妖艶に微笑むと、煙を吐き出しながら話を続けた。
「難しい話じゃないわよ、別に。貴方に任せたいのは娼婦の護衛と見張り、街の警備に治安の確保……ここでの生活とそう変わらないわ、規律は塀の中とほとんど同じ。何なら女も与えてやっていいわ、年齢も容姿も選べるわよ。好みの子を抱きたい放題なんだから、相当いい話じゃない?」
「――必要ないです、別に」
「噂通りの真面目くんね、益々気に入ったわ」
葉巻の火を押し付けながら、スカーレットは高らかに笑った。――そういえば、この時はコートを着込んでいたのもあり彼女の胸元にあんなタトゥーが入っている事は知らなかった。
「意地でも貴方をここから連れ出すわ。……早くて三日以内、それまでに身支度を整えておきなさい。家族にはこちらから連絡をしておくわ、貴方は塀の中で獄中死したと」
「……」
ケラケラと笑う甲高い声が耳に突き刺さるように疎ましく感じられた。
「――俺に家族はいません。妻と子どもは数年前に事故で死にましたから。両親とももう何年も会っていません、ほとんど絶縁したようなものです」
「だったら尚更好都合だわ! そういう人材を求めているのよ、いなくなっても誰も困らないような奴をね」
スカーレットの言った通り、話の続きは二日後だった。元より拒否権などは与えられず、彼は『スミルノフ』という名前を与えられて働き始める事に決まった。彼は酷く無気力だった、別の服役囚からは口々に羨ましがられたが牢獄の場所が変わっただけだと思った。むしろ、外の世界で帰りを待つ者がいる彼らが羨ましかった。自分はきっとサロから一生逃げ出す事は出来ないだろう、減刑を条件になんて言っていたが口約束のようなもので恐らく残る生涯をここに捧げなくてはいけないのだろう事は覚悟した。
街へ移送されてすぐ次の日だ、講習会というものに出席しなくてはいけないと聞かされた。もっと雑な扱いを受けるのかと思いきや、制服や護身用の武器、当然の事ながら寝床も用意されているのだが、それも綺麗な一室で刑務所の布団とは全く違うものだった。
風呂場やトイレ、自炊スペースも完備の状態で、テレビやネット、スマートフォンなどの娯楽環境も整えられていて終業後であれば自由に監視の目もなく使っていいとの事である。奴隷のような待遇をされると思いきや、これには少し驚いた。
ただし、パソコンや連絡機器においてはやり取りの履歴などはしっかりとチェックされるそうだ。まあ、そのくらいは別に平気だった。元より連絡を取り合うような相手もそんなにいるわけでもないのだから。
その日の一晩、久しぶりに清潔なベッドの上で眠ると熟睡出来たのか珍しく夢を見なかった。
「……で、お前は何をしたんだ一体?」
初日の講習会、隣の席にいたのは筋骨隆々な大柄な男だ。顔に刻まれたタトゥーはそのスキンヘッドの頭部まで覆い隠している。人体改造が趣味なのか、耳だけに及ばず顔中の至るところにまで埋め込まれたピアスはまるで強さを誇示するかの為の武装に見えた。
そこまでごちゃごちゃしているとオシャレ以前の問題に思えて、何とも言えない気持ちにさせられた。
「ここに送られるのは大体犯罪者ばかりだって話じゃないか? お前みたいな真面目そうにネクタイを締めた奴が何をしでかしたんだよ。あれか、会社の金でも横領したか」
興味深そうに問いただしてくる男だったが、正直に言ってあまり深く関わり合いたくない。刑務所の中には嫌という程溢れたタイプだが、規則がこちらの方が緩い分いくらか厚かましさが出ているように感じられた。……ここで勘違いされて今後友達面をされるのも、ハッキリ言って御免こうむりたかった。
「オイ、見てみろよ。あっちにはあんないい女もいる」
男が顎でしゃくった先で腰かけていたのは、後にポイズンリリーと呼ばれる事になるその女である。
ガムを膨らませながら、彼女は空いた隣の座席に憚る事なく足を乗せていた。今よりもまだマシな服装をしてはいたが、それでも十分派手な身なりが一際目を惹いた。
「あんなエロい身体と可愛い顔しやがって、とんでもねえ殺人狂いだっていう話だ。人は見かけによらねえっていうのはマジなんだな。……お前もそういうクチか?」
早く講習が始まり話が中断されるのを期待したが、男は中々引き下がろうとはしない。どうすべきか考えあぐねていると、男の背後を通過するように歩いてきたのが――そう、アンネだった。
「もうそろそろ始まるから私語は慎め、この段階から僕達の就業態度は見られているんだぞ」
野太い声に囲まれていたものだから、その半ば大人しいとも言える声質に思わず振り返って顔を確認してしまった。まるで女性のように線の細い身体つきと言い、顔立ちと言い、とにかく似つかわしくない出で立ちにギョッとしたのを覚えている。
何よりもまだ未成年くらいであろう年代だ、何故? という言葉が頭をよぎった。
「隣、失礼するよ」
そう言ってアンネはスミルノフの隣に腰かけた。荒っぽい男達の中では一層浮いて見える、爽やかな風貌をした美青年。驚きの余韻に引きずられたまま、その横顔をじっと眺めていると、思いがけずして目が合い微笑まれた。一厘の風が吹き抜けたように、とでもいえばいいのか――何ともまあ、真っ新な笑顔に却って不安を煽られる。益々のように違和感は募るばかりであった。
「?……どうかした?」
「あ、い、いや……」
「ところでこの袋、何か知ってる? 全員の席の上に置いてあるようだけど」
アンネが机の上に置かれた白いビニール袋を持ち上げながら問いかけてきた。スミルノフが首を横に振ると、アンネは「そっか」と肩を竦めつつ微かに微笑んだだけである。そんな面白みのないやりとりを繰り返しつつ(別に面白さなんて求めているわけでもないだろうが)何か気の利いた言葉でも――と会話を考えているうちに、彼の言った通りすぐに講習会は始まった。ざわついていたホール内が一瞬だけ静かになったのが分かり、スミルノフはすぐに顔を動かした。
正面に現れたのは小柄でややずんぐりとした体型をした中年女性だった。女性はマイクを持ち、簡単な挨拶の言葉を手短に済ませた。集められた彼らにもあまりやる気はないようだったが、こちらはもっと怠惰そうにスミルノフの目には映った。
それよりもさっさと話を進め、終わらせたいのか、女性は中央スクリーンを指し棒で示しながら続きを再開した。
『今から見せる画像はちょっとショッキングなものが多いけれど、心して見るように。いないとは思うけれど気分が悪くなったヒトがいたら、手元の袋に適当にゲロって頂戴ね』
その為の袋なのか、とあまり嬉しくない情報を知れて心の中で苦笑を浮かべそうになった。プロジェクターを通して映し出された画面には、彼女が言った通り何の躊躇もなく色んな写真が必要以上とも言えるくらいに映し出された。
内容は、ここの娼婦達が過去どのような経歴を辿りここへと足を運ぶ事になったのか。それを聞かせる事で、自分達にいかに荒んだ女達を守っていかなくてはいけないのか、その責任感を自覚させる為の講義――という名目だがハッキリ言って、悪趣味でしかない。
手元の資料とスクリーンの画面を交互に指しながら、女性は淡々と説明を続けていく。
『……えーと、じゃ、次。この可愛い赤ちゃんだけど、実の兄に生後二か月頃から酷い虐待と折檻を受けて育った。どんな事をされたと思う? はい、次のページ……』
この調子で延々と、女達がどんな酷い目に遭ってきたのかを聞かされるのだからたまったものではない。流石にここにいる連中も、初めこそ楽しんでいるような不届きな輩はいたようだが、後半からは大半が『もう勘弁してくれ』といったムードになっていた。
もはや私語をしている者はほとんどいなくなっていた。
『これは実際の子宮の写真よ。何が映っているか分かる?――この刺さっている金属片は釘、彼女は数か月もの間、兄の暇潰しとして釘をアソコに突っ込まれ続けたのよ』
「やっぱ男って最低だなァおい」
はっ、と笑い飛ばすように言ったのは先程『顔とスタイルは最高』と称されたポイズンリリーである。げっそりとしている者が多い中、リリーはやはり先の態度を崩さないままであった。
『でっ、その時の赤ん坊がここで働くアヤメ、この娘よ。彼女は成長し、この兄へ同じ事をして復讐を果たしたのよ。それも、この兄が結婚し、子が生まれ、彼にとっては恐らく人生で一番幸せな時期を狙ってね。どう? この話を聞いて、これでもまだ娼婦達に手を出そうと思う馬鹿な奴はいる?』
映し出されたアヤメという女性は確かにこの上ない美女ではあるが、同時に悲しい女でもあるのだ。顔写真を見せられると、何故か急にスミルノフも眩暈を覚えてしまい、込み上げてくるものを嚥下するのに必死になった。
青ざめた顔のまま何気なく見上げると、隣のアンネは何を考えているのか無表情で正面を見据えていた。馬鹿にしたり楽しんだり、逆に引いたりしているような気配も感じられない。何の感情も見当たらない……。
この悪趣味ショーでしかない午前の講義を終え、というか解放され、スミルノフは盛大にトイレで朝食のサンドイッチを戻してしまった。同じように隣でゲロをしている者もいて、笑えなかった。
(――昼はいらないな……というか夜もいらないかもしれない……)
そんな事を思いながらフラフラと休憩室へと戻ると、テーブルの上に置かれたサンドイッチにすかさず目を奪われた。反射的にまた身震いしそうになりつつ、その主にわけもわからぬ怒りを覚えて思わず顔を持ち上げた。
「それでエリー、君はこそこそと後ろから入って来たってわけかい?」
「まあちょっと寝すぎちゃってな、夜更かししたのが悪かったよ」
「凄い奴だな君は、恐れ入るよ。……あ、さっきの……」
振り返ったアンネは片手にサンドイッチ、もう片手には紙コップを持っているのが分かった。紙コップに並々と注がれた紫色の飲み物はぶどうジュースだろうか。その鮮やかすぎる紫が、先程スクリーンで大写しにされた傷口を思い出させるには十分すぎた。
スミルノフはその場で思わず口を覆うと、またもや蹲りその場で嘔吐してしまった。
「!? な、何だよ人の顔見て急に吐くとかっ……」
「だ・大丈夫かい!?」
エリーと呼ばれた赤髪の少年はうっちゃって、アンネが慌てて立ち上がりこちらに近づいてきた。先程吐いたばかりだというのに、胃液が溢れてきたのが分かった。今日一日、というか当分は肉類が入りそうにもない。
「――その……ハンカチ、ありがとう……」
気恥ずかそうに呟き、スミルノフが後頭部を掻いた。隣でアンネは肩を竦めながら微笑み、水の入ったペットボトルを差し出してきた。
「ちゃんとして返すから」
「いつでもいいよ、気にしないで」
先程のエリーという少年はどうも遅刻の事で呼び出しを食らったらしく、呼び出されていずこかへと消えていた。彼も見たところまだ若いようには見えたが、しかしアンネよりは上に見えた。多少落ち着きのない二十代の青年、といった具合だろうか。
「それよりも、もう落ち着いたのかい?」
「――あ、ああ……心配どうも。君の方は何だか随分落ち着いているな、俺よりも随分と若く見えるんだけど。何故そんなに平気そうにしてるんだ?」
一瞬馬鹿にしているように誤解されなかったが不安だったが、アンネはそこはあまり頓着せずに軽やかに微笑んだ。
「想像力が足りないのさ、僕は。鈍感だから今一つピンと来ないんだ、ああいうのを見ても」
さも大した事のないように彼は告げたが……いやはや、何だかそれはとても恐ろしい事のように思えた。
痛みや苦しみを理解できない、それは酷く恐ろしい事なんではないだろうか? 人の倫理観というのは、まず『自分がされたら嫌だからしない』という観点から始まると思う。つまり、自分の身が惜しくない、という事は、他人の身も惜しくない、という事だ。その事実に何故か無性にぞっとしていると、アンネはおっとりとした笑みを浮かべてこちらを覗き込んでくる。
今しがた抱いた一瞬の不審も、それですぐに帳消しにされる。
「少し顔色も戻って来たね、良かったよ」
「あ、ああ、いや……その……」
「ところで自己紹介がまだだったね。僕はアンネだ。――君は?」
ところでこのアンネは、出会った当初から敬語のようなものを用いず話しかけてくる。にも関わらず、下品さや粗暴さ、失礼さ、みたいなものが感じられないから不思議だった。
名前を聞かれたその一瞬、どう答えるべきなのか悩んでしまい、しばしあってから「スミルノフ」と答えた。
そんな回想から引っ張り戻したのもまた、アンネ本人であった。
「――ボーっとしていたけど、どうしたの? 寝不足か?」
ほんの一瞬、これはまだ過去の彼か? それとも現在か? と、迷うくらいには曖昧な状態だった。スミルノフははっとなったように視線を戻し、隣のアンネを見つめた。
「まあ……そんなところです」
あの頃から彼は何一つとして変わらない。変わったのは自分の方かもしれない、この世界に染まり、気付くとアンネには敬語で話すようになった。
「近頃ずっとそうやって考え込んでいる事が多いね。何か悩みでも?」
こういう時に何も答えずにいると、大体彼はそれ以上深くは突っ込まずに去っていく事が多い。しかし、どういう風の吹きまわしなのか今日はその様子を見せない。
「まさか恋患いだったりして」
そう言ってアンネは微笑んだが、微笑み返そうにも顔の筋肉が持ち上がらない自分に気付いた。そんなこちらの様子に、アンネは意外そうに少し目を丸めた。
「――、それより気を抜くなよ、スミルノフ」
「は、はぁ……」
妙に気まずくなり、スミルノフは慌てて視線を逸らしがちになってしまった。
「もうスカーレット様から話は聞いていると思うけど、“メルティングマン”は半狂乱になっている。理性を失った相手だ、平然とこちらにも攻撃を加えてくるだろう。話や説得でどうこうできる相手ではない」
「その件についてですが……そいつの出現場所は決まっているんでしょうか?」
「一応、ね。奴が出没しそうなエリアに目星をつけてオトリを放ってある。僕らも僕らで警備を続けながらそいつを探すつもりだけど、常に注意を払っておく必要がある。背後から突然襲われる可能性だって頭に置かなくちゃいけない――いかんせん攻撃手段が謎だ、飛び道具はあるのか、毒物などを使われる事もあるかもしれない」
普段は温厚なアンネの目つきが、鋭く細められた。こういう時――流血や傷害は免れないような事態が起きた時、彼の空気は一瞬にして『死神』と称される時の雰囲気へと変貌する。彼の剣術は訓練の時にしか見た事はないが、およそ健全な趣味で行われるようなそれとは言い難いものを孕んでいた。
きっとあの時、指導官が止めなければ彼は竹刀であろうとも相手の男(それも一回りも二回りも縦にも横にもでかい相手に)をそれこそ復帰できなくなるくらいにまで追い詰めていただろう。先に挑発した向こうにも落ち度がないわけではないが、あの時は流石に言葉を失い、アンネに内包された狂気のようなものの片鱗を覚えずにはいられなくなった。
『想像力が足りないのさ、僕は』
そう言って少し困り果てたように笑うアンネの事を思い出す度に、彼への恐怖心と共に陶酔のようなものを胸の内に覚える。名前をつけようのない感情に、身を苛まれる。
――死神アンネ、お前は一体何者なんだ?