#9-4 / The Long Bad Night
スカーレットは片手に持っていた事務封筒をテーブルに置き、自身も葉巻を取り出すとオイルライターで火を点けたようだった。店主はその封筒にあまり目を向けずに、一度椅子から立ち上がった。
「何か飲まれますか?――ああそうだ、いい酒があるんです。焼酎はお好きでしょうか、ファウという年間限られた本数しか製造されない貴重なものを仕入れまして。冷凍庫に入れると甘みが出て美味しいんです、アルコール度数が四十四と高いので中身が凍る事もありません」
「……まあ、それは素敵。でもいいのかしら、そんな貴重なものを頂いても?」
スカーレットが問いただすと、店主は肩を竦めつつボトルのラベルに目をやる。改まったようにそれを見つめてから、こちらへと戻ってくるのだった。
「ええ、勿論ですよ。しかし、その……公務中ですが平気ですか? 先に言ったよう、非常に強いお酒ですが……って、確認するのも何だか妙な話ですね」
今度は彼の方が確認する番だった。スカーレットは悠然と葉巻の煙をくゆらせたままで答えた。
「――じゃ、一杯だけ頂こうかしら。私と貴方の友好の証として」
組んでいた脚を組み替えてから、スカーレットはまたゆったりと笑んだ。スカーレットの声色は優しかったが、どうにも落ち着く事はできなかった。
「さてと。じゃあ、まずは何からお話ししようかしら?」
独り言のように呟いてから、スカーレットは先程の封筒へと再び手を伸ばした。彼女は何かとてもおかしい事でもあるように、唇の端に笑みを浮かべている。封筒から取り出された資料が一体何であるのか分からないが、スカーレットはともかくそれを眺め始めたようだった。ホチキスで端の止められたそのA4サイズ程の用紙を捲り、何度か小さく頷いた後、スカーレットはそれを再び閉じた。
「……上の体制が変わるとどうしても作業が重複する事があるのよ。――付き合わせてごめんなさいね、形式的な質問をいくつかさせて頂きたいだけなの。別に不安に思う必要はないわ」
葉巻を咥えたままで、スカーレットは用紙からこちらに視線を向ける。酒の入ったグラスを差し出しながら、店主はもうひとたびスツールに腰を下ろした。
「……先程の二人は従業員? まだ随分と若そうだったわね。未成年にも見えたけど、あの子達」
「一人は身内です、一応二年前に成人していますよ。自分の姉の息子で……もういい年齢だっていうのに遊んでばかりで働こうとしないから、うちで雇うように言われたんです。で、もう一人の女の子は短期アルバイト、あの子もああ見えて二十六歳です……あ、二十七だったかな……まあともかくそのくらいかと」
「――あらまあ、そうだったの、単に興味があって聞いただけよ。別にそれについて何か尋問したいわけじゃないから、どうか気を悪くしないで」
それで、スカーレットがまたにっこりと笑みを広げた。髪を追いやり、葉巻を放して灰皿に置いた。開いたその片手でグラスを手にし、一口ばかり飲んだようだった。店主は何故かその視線に射止められたかのよう、身じろぎもしなかった。……正確には、出来なかった、というのか。
ほんのしばらくの間、沈黙が落ち、店内には英語詞のブルースだけが繰り返し流れ続けていた。サビの部分にさしかかり、その有名なフレーズは恐らく誰もが一度は耳にした事があるだろう――そのリズムに紛れ込むよう、不意に籠ったような物音が響いた。ともすれば聞き漏らしそうな程の微かなものであったが、二人共ほぼ同時のタイミングで、それに気が付いたようだった。スカーレットはその音を辿るよう静かに視線を動かし、天井の方を凝視していた。一方で、店主の方は訳知り顔で「ああ」と声を漏らしていた。
「おかしいわね。この上は確か誰も入居者がいなかった筈だけれど」
「ええ……そのぅ、飲食店にあるまじき話で申し訳ないのですが、どうもネズミか何かの害獣が住み着いているようでして」
店主が不快そうに顔を眺めながら、カウンターに立てかける形で置かれていたモップを手に立ち上がった。傍にあった脚立に足を乗せながら、店主は柄の先を天井に向かって二、三度ほどそれを軽く当てた。
「まあ、そうだったの。それは大変、すぐにでも駆除を依頼した方がいいわ。つがいでいるのだとしたら爆発的に数を増やして悲惨な事になるわよ」
それを聞き、スカーレットが仰々しく肩を竦めた。店主は様子を見ながら柄を下げた後、苦笑いと共に戻って来る。モップを傍らに置きながら、彼は再び腰を下ろしたようであった。
「ええ……いやはや、全くそう思います」
店主の差し障りのない返答に、スカーレットはまた微笑んで髪を耳に掻き上げた。それから、再びスカーレットは話を続けた。先程からだったが、彼女が奇妙に親密そうな口調なのは何か意味があるのだろうか?――店主は戸惑いつつも、自身もグラスに手をやった。彼女の様子に合わせるよう、一杯目を口にする。
「……ねえ、とても不思議だと思わない? どうして私達ってネズミをそう嫌うのかしらね――ああ、勿論私だって好きじゃないわ。でもこれだけは思うのよ、果たしてネズミが私達に何かをしたかしら? ってね」
それは本当に、傍から聞けば至極どうでもいい話のように聞こえた。それで、店主は「はあ」といった具合に随分と間の抜けた返答をしていた。幾分か慌て、取り繕うように言葉を繋げた。
「そりゃあ……雑菌だらけで病気を持っていたり、それに噛みつきます。糞尿やらを垂れ流しますし、見た目もどことなく不愉快ですから」
「――そうね。見た目が不愉快というのはまあ……感情的な問題ね。でも病気だけで嫌うというのならば、似たようなハムスターやリスが嫌われないのは何故かしら? 同じ病原体を持っている可能性だって大いにあるわけじゃない。それに噛みついたり、糞尿を漏らすのは犬猫も同じでしょう? しつけのされていない野生の動物は皆そうだわ」
店主は押し黙り、只々スカーレットの顔を凝視していた。そうせざるを得ない、といった具合だっただろう。彼女が何を言わんとしているのか分からなかったが――ともかく、良い方向に向かっているとは到底思えないのは事実であった。
「私ね、動物は大好きよ。犬も猫もウサギも。排泄物をしようが嫌わないし、その処理も餌の面倒だって責任を持って見るわ。……でもネズミは嫌なのよ。貴方と同じで大した理由はなく、私達はそれらを嫌っている――ともかく嫌悪感を抱いているの、生理的に受け付けないからという事でね」
一方的にそこまでを言って、スカーレットは一息吐いたようだった。何かに乱暴に押さえつけられたような気になり、店主はそわそわとした居心地の悪さを覚える。……逃げ隠れする場所など、どこにもあるわけがなかった。
スカーレットは葉巻を口から外すと、飲み干したグラスの氷に押し付けて火を消した。アルコール度数の高い酒だ、一歩間違えれば引火事故を起こしかねなかっただろう。しかし、そんな心配もよそにして彼女の話は目まぐるしく急展開を迎えていた。店主がようやくその氷から目を剥がすと、そこには相変わらず口角だけを持ち上げつつ微笑むスカーレットの顔があった。……立て続け、彼女は言った。
「――私はネズミと娼婦にそう大した差はないと思っているの。どうしてだか分かる?」
やはり親密そうな口調を、彼女は崩さなかったが店主は無闇に硬直したままだった――「……、いいえ……」。店主が静かに、首を横に振った。そしてその仕草は、何かを否定しながらも、同時に『肯定』しているのと同じだった。
「あいつらは人の家に上がり込んで財産を食い荒らす害獣よ。病気を持っている所も、追い詰められたら噛みつくところも同じ。けどそれが別に悪い事だとは特に思わないわ。あいつらは私達を嫌っていたし、同じように私達もあいつらを嫌っていた。これはお互い様よね」
そしてそのおかしなわだかまりの正体に、ようやくのように気付いた。――どうして、一体どうして彼女は過去形で話しているんだろう? 彼女と目が合い、店主はまた別の部分にも気が付いた。スカーレットの目がまるで笑っていない事に。
「私が今日はるばるここへ来たのは人間愛を説く為じゃないわ。――この街にそもそも愛なんてものはないの」
そこで、スカーットの以下の口調は現在形へ戻った。笑っていないように見えていた彼女の目が、どこかいたずらっぽく微笑んでいる。……けれど再び唇を開いた瞬間、その表情は一切のように消えた。
「――もう一度言うわ。貴方がもし、私達に協力してくれるのであれば罰したりはしないしむしろ見返りを与えてもいい。貴方の店だけではなく、身内だというあの男の子やアルバイトの女の子、従業員全ての身の安全を保障してあげる。この約束は、貴方達がここにいる限りはずっと続くのよ?」
「……」
言葉そのものを失ってしまったように、店主の顔は今や蒼白になり絶句していた。その両目にはうっすらと涙のようなものが浮かんでいる。声を上げて泣き出すような気配はなかったが、ともすれば今にも一筋二筋と、涙は溢れ出てきそうであった。
黙ったままの店主に、スカーレットは更に言葉を投げつけていた。
「娼婦を逃がそうとしているんでしょう」
首の筋肉がすっかり硬直していた。拳銃か刃物か、或いはまた別の何か、命を奪う凶器を向けられているような気持ちになった。唇が緩み、全身の毛穴から冷えた汗が吹き出していた。自分が意識しない所で、何らかの感情が働いたのか喉の奥から声を引きずり出したのが分かった。
「――、はい」
店主があらゆる感情を押し殺したような声で呟いた。スカーレットは同調するように頷き、静かに物音のした天井を見上げた。
「この上にいるのね? その先で、この街から逃げる相談でもしていたのね」
店主はもう、静かに泣き伏せるだけで何も答えなかった。答えなかったが、それで十分だった。――粛清の準備は整ったのだ、スカーレットは店主に背を向けスマートフォンを取り出していた。まるで凍てついていたように停止していた時間が、再び動き出したようだった。
見知った配送業者センターのワークウエアを羽織り、両手には特大サイズのダンボール。ご丁寧に『割れ物注意』、と、でかでか目立つシールの張られたそれを抱え、エリーは雑居ビルのエレベーターへと入り込んだ。
扉の先、その箱の中には既に先客が二名いて、どちらも自分よりかなり上の年代に見えた。狭い室内は男達の加齢臭と、濃い香水が混ざった匂いでいっぱいだった。一人はセットアップの白ジャージ姿の中年で、色黒の坊主頭。その隣には、濃紺のダブルのスーツ姿。正反対な装いの二人ではあったが、どちらもいわゆる堅気じゃないのは一目見て分かった。ジャージの方は縦にも横にもサイズのある大柄な男で、エリーの姿を目に留めるなり怒気に満ちた表情を浮かべた。
「このクソ狭い中にそんなでけえ荷物抱えて入ってくるなよ」
悪態をつきながら、大男は自分より背の低いエリーをじろじろと見下ろしていた。舌打ち交じりのその言葉に、仕事中じゃなかったら間違いなく胸倉掴んでるところだな、とエリーは内心で思った。何とかその衝動を押しやり背中を向けていると、大男の方はそれも気に入らなかったのか罵倒を続けた。
「どこの宅配業者だよ、マナー違反じゃねえか? おい」
「……荷物以上に邪魔なのはお前のその太った身体だろうが」
言葉そのものよりもまず、男の尊大な態度が気に入らずにエリーは背を向けたままでポツリと言い返していた。大男は特に何も言い返さなかったが、しかし無言のままで片手を動かして、エリーの肩を突き飛ばした。
緩慢とした動きではあるが重たい一撃だった。向こうからすれば単に脅かしてやろう、といった具合の威嚇程度の攻撃だったか。が、大して身構えもしなかったものだから、エリーはそのまま吹っ飛ばされる格好で扉が開いたその先のフロアに前のめりに頽れた。荷物を巻き込む事にはなったものの、何とか背中で受けて怪我を被るような事にはならなかったらしい。その先でエレベーターの到着を待っていた女性が短く悲鳴を上げて、ヒールの踵をよろめかせた。
「おいおい、やめろよガキ相手に。あんま目立った行動すんじゃねえって」
白ジャージの方がたしなめると、大男はそれ以上追撃する様子も見せなかった。不機嫌そうに舌打ちをさせたのが伺えた。
「……だ、大丈夫ですか……?」
そのただならぬ気配に女性は当然、エレベーターの乗るのを見送ったようだ。……かくして強制的に箱の中から退出させられたエリーだったが、突き飛ばされた衝撃や痛みや怒りよりも、まずは一つ『確信』に迫れた事にほくそ笑んでいた。
(あいつら、最上階に向かったか)
聞いていた話では空き部屋の筈だった、やはりそこを拠点にして計画を進めていたらしい。エリーはダンボールを持ち直すとその場から立ち上がった。
――それにしてもあんな品のない連中、よく使う気になれるな?
毒づくのは内心だけにしておいて、エリーは階段を探し足を進め始めた。
「……ねえ、急いだ方がいいんじゃない……?」
不安そうな声を上げるのは、先程の従業員の女性だった。
「分かってるさ、いつこういう事態になってもいいよう俺達今日までずっと計画を進めてきたんだろう?」
それに返事を寄越すのはもう一人の従業員だ。まだあどけなさの残る彼の顔だちは、身内というだけあって店主のそれとどことなく似ているのが分かる。
「――私のせいでこんな事になってしまって……」
申し訳なさそうに呟く女性の肩にそっと手をやりながら、従業員の男性が励ますように微笑んだ。
「なあ、そういうのはお互い言わないって約束しただろ?――ここを出たら必ず一緒になろう、そしたら俺、君の為に必死に働くよ」
二人のやりとりを眺めながら、女性従業員は祝福してやりたい気持ちと同時に切迫感を覚えていた。――そうだ、あまり悠長にしていられる時間はない。二人さえこの街から逃がしてあげれば、街の外に上手く出られたら、きっとそれで……。
「――、ごめんなさい。……、ごめんなさい……」
「いいんだ、俺達がそうしたいからそうするんだよ。これは別に誰のせいでもないさ」
娼婦の少女は、まだ未成年のようだった。こんなに寒い時期だというのにほとんど下着同然の薄着姿で、足元は裸足のまま。顔自体には目立った外傷はないが、身体のあちこちにミミズ腫れや青痣が浮かんでおり、また少女自身がつけたのであろう痛々しい自傷の形跡も浮かんでいた。
このいやったらしい、奴隷じみた傷跡の数々が彼女本来の美しさを阻害している。そう思うと、青年の心にマグマのような怒りが無限のように沸いてくる――同時に彼女の受けてきた辱めや暴力の数々を想像し、悲しみを覚えた。見兼ねたよう、青年の方が私物のパーカーを羽織らせてやると、細身の少女の身体にはいささか丈が余るようだった。
「ごめん、後でちゃんとしたやつを買おう。しばらく我慢していてほしい」
「――うん。ありがとう」
そこでようやく少女はうっすらと笑顔を見せたが、その控えめに笑う唇から覗けた口内、数本歯が抜けていた。薬の影響によるものなのか、それとも暴力によるものなのか判別しかねたが――ともかくあまり気分のいいものではなかった。
「かず君は、やさしいね」
そう言って少女はぼろぼろの姿で、けれどはにかんだように笑った。
「こんな姿の私を見ても嫌いにならなかった」
それでも幸福そうに少女は続けた。
「だから私、かず君の事が好きになった。一緒になりたいって初めて思ったの。あの店のお客さんは、かず君以外みんな怖かったから」
「――当たり前じゃないか。嫌いになれるわけなんかないだろう」
そう告げると、青年は半ば泣きそうな顔つきになりながら続けた。
「俺、あんまうまく言えないけどさ」
前置いてから、青年は少女のやせ細った両手を取った。
「俺も、ミキと一緒だよ。同じように感じていた。ずっと。君のやさしさや、穢れのない魂が……好きだったんだと思う。惹かれていたんだ、そういうのに」
それから、二人はお互いに身体を預け合いしばしの間抱きしめ合った。(当たり前だが)性的なそれのない、只々、別れを或いはこれからの希望に救いを求めるかのようなそんな抱擁だった。寄せ合って、互いの存在を確かめ合うかのようなキス。悲しい味のする接吻。最初で最後になるのかもしれない、そんな接吻を――数秒、或いは数分。いや、もう少し長く。きっと或いは永遠だったか? それでも、二人は唇を離すしかないようだった。
「おいおい、お二人さんよぉ。邪魔してわりーけどな、もうそこまで迫ってるらしいゼ。ちゃっちゃと仕事に入らせてくんねえかなあ?」
男の粗暴な声は、二人の清らかな世界に入り込んできた合図のようだった。お客さんもう列車出ますよ。出ちゃいますよ。扉閉めるんで、さっさと乗っちゃってくれませんかねー。あーはいはい。駆け込み乗車は禁止ですよー。……青年はなけなしの金で雇っておいた暴力団達から受け取った、オートマチック式の拳銃に手をやった。
「かずくん」
「大丈夫だ。……君を必ず逃がしてみせるさ」
同じよう、事務所の中が粛々と動き始めていた。
「……ねえ、ユイ姉さん。本当に良かったのかい……?」
「別にアンタの姉さんじゃないけどサ。……うん、いいよ。二人を助けてあげるよ。何かそうするのがあたしたちに残された最後の正義、みたいな感じがするから」
「けど、そうしたらここに残っちまったユイねえとマスターは……」
「マスターは別にどって事ないんじゃない? いつも通り営業を続けられる代わりに、あのオバちゃんに上納するお金が高くなるとか。……あたしはー……ま、どうなっちゃうのかな。流れ弾にでもあたって死ねたらラッキー?」
「ユイ姉! あんまりそういう不吉な事は……」
「――あら何よ、本当の話だわ。ここでの女の仕事は低賃金だけどバーテンダー、ウェイトレス、若しくは……娼婦。あのオバちゃんに認められたらあたしも高級娼婦ってのになれちゃうのかな? ウフフ、それはちょっと嬉しいかもね~。綺麗な着物とか衣装とか、沢山当たるんでしょう。稼ぎもここの何倍かしらねー」
「ユイ姉、ミキもいるんだから冗談でもそういうのは……」
「ごめん、って。何かあんたたち見てると、つい毒吐きたくなっちゃうんだ。でも気にしないで、別に嫌いとかそういうんじゃないしむしろ好きだからこその……あー、愛?」
何それ、と青年が苦笑交じりに肩をすくませた。