#9-3 / The Long Bad Night
ロジャーは答えずに、だがじっとこちらを見つめ返してきた。彼の真意は読み取れないが、緒川も少し臆してしまう程の剣呑さを孕んでいるのは分かった。射るような眼差し、とはまさしくこのような視線のことを言うのだろう。チンピラにガン飛ばされた時のようなああいう怖さとはまた違う、一種また別の怖さ……と、でも言えばいいのだろうか? ともかくまあ、今はビビッている時ではない。
「――そいつが何者なのか知らないけどさ。俺も協力するって言った以上は把握しておくべきなんじゃねえのか? ほら、俺が自分自身の身を守るって意味でも、」
「そっか。それはそうだな、確かに。……あー、悪かったね緒川くん。言われてみれば、今回のコトだって僕が原因で巻き込んだみたいなものだったね」
まだ言いたい事の途中だというのに、ロジャーは割って入るようにそう言ってのけて強制的に話を終わらせようとした。で、反射的に見ると彼は気持ち少しだけ、口元の両端を下げている。ロジャーは怒りの感情をこうやって僅かな変化だけで表現するから今一つ分かりづらいというのか……。
「い、いやさ、別にそれはいいんだよ……覚悟の上っていうか? あー、何だ。俺が言いたいのはつまり――」
生憎だが、自分は本をあまり読まないのだ。そのせいなのかボキャブラリーの少なさは自覚しているし、日頃からうまく気持ちを伝えるのがあまり得意ではなく――緒川がもどかしそうにああでもない、こうでもないとばかりに後頭部を掻いていると、ロジャーはくるりと踵を返してしまった。
「じゃ、これからは僕が一人で全部やるよ。邪魔をして申し訳なかったね」
言葉少なにそう告げると、ロジャーはその場からつかつかと足を進め始めた。
「……って。おいおいっ、そういう事じゃねえよ! 何でそーなる!?」
「あ、そうだ。お礼を言うのを忘れてた。ここまで僕のわがままに付き合ってくれてありがとう、緒川くん。少しの間だが、僕にも仲間が出来たようで楽しかったよ」
「ちょっ……だから何でそうなるんだってば! 全然違うっつーの!」
立ち去ろうとする彼の腕を慌てて掴み、緒川が叫んだ。力んだせいなのか自分でもびっくりする程大きな声が出たが、振り返ったロジャーにあまり感情の起伏らしきものは見られない。怒りとも悲しみともつかない顔つきのまま、彼は口を開いた。
「よく考えたら君には君のやらなきゃいけない事があったんだよな。……ごめん、僕が勝手に君を振り回しちゃってたね」
「や、だからさ。最後まで聞いてくれよ、ちょっと……」
「もう君の邪魔はしないからさ、だから」
「ば、ば、ばっきゃろう!!!」
あーあ。と、言ってから思った。思ったが、もうこの際だ。知ったことか、全部言ったれ、と開き直った。吹っ切れたような緒川の声に、ロジャーは肩を竦めた。
「なに? 何だよ?」
「俺が言いたいのはそういう事じゃねえんだよっ!……別にな、俺はお前がいくら俺を巻き込もうが迷惑だとかさ、そーゆー事はまあとりあえずどうでもいいんだよ、今はな! あと俺の本来の目的だともかさぁ、そういうのもまずはあっちに置いといていい! あっちに!」
あっちに、と荷物を置くようなリアクションを交えつつ声を荒げると、ロジャーは特にそれを拾いもせず真剣な目つきのまま耳を傾けている。
「いいか! 俺はなぁ、只単純にロジャー自身の事が心配なんだって! このままだとお前が何か危険な目に遭うんじゃねーかとか、俺がお前を助けられるんなら助けてやりたいし、ともかくそういう事をだな……」
「だからさぁ、言っただろう!? 今後はもう僕が君の足を引っ張らないよう、迷惑を掛けない為にも僕は単独で行動するって。これ以上何が必要なんだよ? 何ならこの場で土下座でもして君の時間を奪った事を謝罪するかい?」
「い、いや、だ・だ、か、らぁっ! そーじゃねー、そーじゃねーんだよっ、きちんと話聞けよ!? 俺の今言った内容のどこに一体そういう要素があったんだよ。ったくお前さぁ、俺よりよっぽど頭いい癖に何でそんなとこは融通きかねえんだ!?」
「…………」
「こほん。……、つ、つまり、なんだ。あれだ。と、と、と、友達を心配して助けてやりたいのは、あああ当たり前だろうが……」
「っ!?」
ロジャーの妙にはっとした表情にこちらが恥ずかしくなり、緒川は照れ臭そうに視線を逸らして頬を掻いた。いやいや、なんだ。上原にもこんな気障な発言した事はないぞ……一生分の恥ずかしさを使っている気がする。正直、明歩に告白した時よりも全然緊張しているというか、何というか。
「あ、いや……ホラ、俺はシャイな日本人だからお前と違ってあんまり積極的にあれこれ言えるキャラじゃないし普段あんまりそういうの口にしないからさ、日頃伝わってなかったのかもしんねぇけど、うん。おおおおお俺にとってお前は仲間というか友達というか戦友というのか、むしろ、親、友、みたいな」
「緒川くん……」
「あーっ!! も~うだから分かってるよ、俺ったら何かもう恥ずかし……っ」
「――あの騒ぎ……一体何だと思う?」
「……。へ?」
「何だかあんまり穏やかじゃなさそうに見えるけどあの様子。どうする、行くかい?」
「……、え・えぇっ!?」
ロジャーの視線を追い慌てて振り返ると、彼の言う騒ぎとやらは砂浜の方で起きているようだ。先程のサーファー達が悲鳴じみた声を上げているのをまずは耳にした。彼女達は何を見て騒いでいるのか、その短い時間のうち何とか探ろうとしてみる。何だ? 海の方か? ざわつく彼女達を観察しつつ、緒川はその事態そのものよりも先に動き出していたロジャーの後を追いかけて走り出したのだった。
「……」
先程までは腱が削り取られたかのように、ほとんど動く感じがしなかった片腕が次第に動くようになってきたのが分かった。感覚もある程度は戻ってきている。……しかし――、と、ネームレスは担いでいた木崎の身体を半ば乱暴にその場に放り出した。悪意があってそうしたわけではなく、負傷した身体でこの海水の中を泳ぎきってきたせいで、反射的にそうなってしまったわけである。
無事な方の腕を動かし、自分の傷の具合を確かめてみた。――ベイビードールと、怪我の治療してくれたあの女性は無事なのだろうか? と、思い、いや。と思い直した。それよりも今はこいつか……と、こちらに背を向けた状態のままぴくりともしない木崎を見やった。
「おい、大丈夫かお前」
呼びかけてみたものの、反応はまるでなかった。たらふく海水を含んでいるのであろうその身体を揺さぶったが、案の定体温は恐ろしい程に低かった。木崎の制服、右脇腹から下が海水とはまた違う液体――そう、血液がべっとりと染みているのが見えた。
先の戦いで、あの彼の上司だと名乗った細野という男(自分が目にしたそいつはとてもじゃないが人には見えなかったけど)との戦いの末に負った傷だった。――改めて、自分の満身創痍――だった筈――の身体を不可思議に思った。考えたところで答えは出ないのだろうが、もはや死の床にいた筈なのに回復していく己が一体、誰であるのか以前に何なのか。考えると頭痛がしそうだった。
ネームレスは木崎が本当に死んでいるんじゃないか、と勘繰った。出会って間もないこいつにそこまでの情があるわけではないが、あの滑り落ちていく意識の中で確かに聞いたのはこいつが自分を生かそうと提案していた言葉だ。……何よりあのよく分からない施設から抜け出せたのは、この男の助けがあったからでもある。
貸しを作ったまま死なれるのは流石に後味が悪い。何よりも目の前で死んでいきそうな存在に対して、見て見ぬふりなどはできるわけもなかった。ネームレスが木崎の身体を半ば乱暴に起こすと、彼はぐったりとしたまま力なくその場に身を預ける姿勢となった。
「おい」
返事はなかった。大量に水を飲んでいるのかもしれない――その場に彼を寝かせると、ネームレスはその場にいた海水浴客か、ボディースーツを着た男女に呼びかけた。カップルなのかどうかまでは判断つかないが、二人共年齢にそう差はないように見受けられ、互いに派手なサーフボードを抱えていた。呆然とこちらを見つめていたが、再びネームレスが声をかけると反応を見せた。
「電話か何か、貸してくれるか。見ての通りこいつは重傷なんだ」
「は、はい……あ、あの、車に荷物置きっぱなんで取りに戻ります……」
先に反応したのは女性の方で、こういう時に冷静なのは女の方だという聞きかじったような知識がふっと頭をよぎる。茶髪に焼けた肌をした女性は急いで走り去っていった。ネームレスは木崎の前に見下ろすようにして立つと、さて、どうしたものかと考え込んだ。水を飲んでいるなら、肺を踏んづけて強制的に吐き出させる方が手っ取り早いか……と躊躇も迷いもなく、片足を踏み込んだ矢先に爪先を掴み返された。
「生きてるよ、勝手に殺すのはよしてくれ。あと人を足蹴にするのもね」
言うまでもなく意識を戻した木崎である。寝かされた状態のまま、木崎はどこにそんな力が残されているのか不思議になる程の腕力でこちらの足首を掴んでいた。
「だったらすぐ返事をしろ。……このままだとお前に人口呼吸をするところだった、あんまり想像したくないが」
「こっちは肋骨が折れるくらいに殴られてるんだから。もう少し優しくしてくれてもいいんじゃないか?」
苦笑交じりに起き上がり、木崎は血の滲む脇腹を押さえながら何とかしてこちらの助けを介さずにその足で立ったのだった。ダメージは見事に蓄積されていて見るからに限界そうだが――ふらつく木崎を見つめつつ、ネームレスが言った。
「今、あの二人に助けを呼んでもらっている。お前はそれに乗せてもらってすぐにでも病院に行け、その傷……」
「馬鹿を言うなよ。病院なんて一番厄介じゃないか、すぐに通達が行って俺はまた逆戻りだ」
「――俺はどうか知らんが、お前はむしろその方がいい筈じゃないか? 正直に話せばお前の身柄は保護されるし、安全を考えたらそれが一番だろう」
「……俺がさっき自分の上司をぶっ殺したのを忘れた? 理由はどうあれ、これで俺も追われる立場さ」
吐き捨てるように言った木崎の顔がどことなく寂しそうに見えたのもあり、ネームレスはそれ以上何か言うのも躊躇われてしまい口を開くのを止めた。寂しそうにしている理由は勿論只一つで、彼があの助けに向かったマンションの住人の件なんだろうが……結局木崎が助けたあの男とは一体どういう関係だったんだろうか。追及するのも憚られたし、何も言うでもなくネームレスはふっと肩を竦めた。
そうやって話し込んでいるうちに、ざ、ざ、ざ――と背後で砂浜を踏みしめる音がした。そしてそれは、本当にすぐ傍にまでやってきていた。木崎はとっくに気付いていたようだが、特に何かするでもなく同じ姿勢のままだったので自分もそうしていた。
「……おいおいおい。君ら、一体何者だ~い? んー、見るからに怪しいなァ……」
「返事の内容によっちゃあ、今すぐぶっ飛ばすけどな」
声がかけられても、ネームレスと木崎はすぐに振り向かなかった。視線だけ僅かに動かして、近づいてきたのが二人で、それもまだうんと若そうな、学生服姿の男子なのだと知った。
「おい、何か絡まれてるみたいだぞ」
「――中坊じゃん。無視すればいいんじゃない?」
木崎はいともあっさりとそう言ってのけて、相手にしないスタンスのようだった。
「中坊じゃねえよ、高校生だよ馬鹿っ!!」
「しょうがないよ緒川くん、人間ってのは歳を重ねると自分よりも下の年代が全部同じような顔と世代に見えちゃうもんなんだから」
血気盛んそうな学ラン姿の方は、年齢相応の少年に見えた。もう一人の金髪の方は、どことなくだが妙に達観しているように見えた。落ち着いている、という言い方をするとまた違うように感じられるが……金髪の少年は腕組をした姿勢のままふっと鼻先だけで笑った。
「さて、もう一回聞くけど君らは何だい? 今さぁ、病院に行くと面倒になるとか何とか言ってなかった?」
彼はそのまま、口元に皮肉っぽい笑顔を浮かべつつ問いかけてきた。何となくこちらの方が厄介そうだな、と直感的にネームレスは思った。木崎も同じように思ったのかもしれない、普段のようなあの調子で話しかけたりはせず、様子を伺うように押し黙っているのが分かった。
「それがお前らに何の関係がある」
ネームレスの言葉に、高校生二人組はしばし顔を見合わせたのちにまたこちらを見つめた。
「益々怪しいな。――ロジャー、ひょっとしたらこいつら、何か関係があるのかもしれないぜ……」
「おおっ。ここへ来て大物ゲットの兆しかな~? アッハハ、焦らずに落ち着いていこうね~。何か今までのよりちょっと強そうだけどいつもの調子でやればだいじょーぶだいじょーぶ! 僕と緒川くんの無敵ペアが負ける事はないよ~、んっふっふ!!」
何が何やら分からないが、まあともかく。妙に自信たっぷりで一筋縄ではいかなさそうな方がロジャー、まだ話の通じそうな黒髪の方が緒川……というそうだ。隣で木崎はやれやれといった具合に肩を竦めて、仰々しく息を吐いた……。
夕暮れの街、帰宅ラッシュで込み合う街の中を颯爽と走り抜けるアメ車が一台。
よもやこのいかついアメ車を転がしているのが、このどう見ても十五歳にも満たない程の見てくれをした美少女(……と、思いきや性別は男だとの事である。ついでに年齢も、「にじゅうはち~!」と妙に元気に答えられたのだからもう……)だとは誰が想像できただろうか。
ミミはもはや、説明を求めようにもどこから聞けばいいのかさえ分からないでいた。よくある、勉強しようにもやり方も分からないし、どこが分からないのか分からない、みたいな。何だかそういう感覚にちょっと似ている。
「……あ、あのーぅ。その、えと……」
運転席には左手でハンドルを切る、ベイビードール。おまけにその片手の指先、火の付いたままの煙草が挟まれているのに目が行ってしまう。いや、ツッコミ不在の恐怖がこれほどのものだとは……ミミは助手席で苦笑いのまま、そんなベイビードールを見つめていた。
「俺、運び屋さんと違って運転技術はあんまりなんだよなあ。よく密偵務まったか自分でも不思議だよ……」
ぶつくさ言いながらベイビードールは片手ハンドルをさばき、目の前の渋滞にイラだったように追い越しをかけた。確かにまあ、ちょっと乱暴な運転だなとは横で見てて思う。思わずシートベルトを握り締めると、ミミはベイビードールを見つめ直した。
「ごめんね、何か完全にアンタ巻き込まれちゃってるね。安心して、ひとまず二人と合流が出来たらアンタの事はきちんと送り返すよ」
「う、うーん……それはもういいのよ……いや、よ、よかないけど、今はまあいいのよ……、あ、あのね、い、今のこの事態って何なの? 私さ、実は今旅行中で。気付いたら変な場所にいて、それで貴方達と会ったんだけど」
言いながらミミは、外の世界に再び出会えるとは思わずに安堵していた。あのおかしな場所から抜け出せて、そして今この場所にいる。それはとても嬉しい事実なのだけれども。――でも、妙な違和感……胸騒ぎを覚えずにはいられない。変わりない日常が流れていると分かりつつ、ミミはこれが何かの前触れのような気がしてならない。どういうわけなのか分からないけど、言っちゃえば嵐の前の静けさ、みたいな。
「あの人は……、大丈夫なの? 私が治療したあなたのお友達っぽい人よ。どういうわけなのか、傷が塞がっていたの。あれは一体、何で……?」
「――、一概には難しいんだけど。簡単に言えば運び屋さんに流れている血のせい、かな」
「血……?」
「厳密には……移植された生命体の細胞がそうさせているんだよ。実を言えば俺にも同じものが移植されてる、身体能力の向上や怪我の治癒促進……免疫力を高めたり、うまく利用すれば医療技術の発展にもなるね」
「え、ええ……」
「いわば俺達はその技術に利用された、実験台みたいなものだ」
聞きながら、ミミはベイビードールが問いかけに対する完璧な回答を持ち合わせていない事を本当の意味で理解した。彼自身がきっと模索中なのだろう、と思った。
「ただ、運び屋さんの場合……俺とはちょっと違う蘇生の仕方をしてるみたいだから。だから多分、俺から言える事が少ない。変な事言って余計に混乱させてもな、って思うし。……ごめん、頼りにならなくてさ」
「ううん。こっちこそ……その、今はとりあえずあの二人に会う事を考えた方がいいよね」
ミミが力なく笑って、それからシートに背中を預けた。何気なくスマホを見ると、電源がもう残り少ない。萌絵からのメッセージが少しばかり未読状態のままで残っていて、開いてみると『トキオちゃん元気だよ~』みたいな、そういう話。相変わらず呑気だなあ、って当たり前だ。……当たり前だけど今はそういうのが何だかとても懐かしく感じられた。
「ごめんね。けどさ、あの木崎って奴はよく分かんないけど、俺と運び屋さんは別に君に危害を加えるような真似とかはしないからさ……そういう意味では悪人じゃないよ、俺もあの人も」
「――、少なくとも、あなたは悪い子には見えないわ。……今のところは、だけどね」
そういう意味では、の部分に何かとてつもない重みを感じたのだけれど、ミミはため息交じりにベイビードールを見つめ返したのだった。口元にはやや頼りない笑顔が浮かんでいたように思う。もう少し笑って微笑みたかったけれど、力が入らなかった。
「うふふ~。まっ、少なくとも女の子を騙すような悪い男ではないよぉ」
ぱちんとウインクで返すベイビードールだが、本当にそこだけを見れば極々普通の少女でしかないので不思議である。……さて。これから、どうしよう。
カーステレオに表示された、デジタルの時刻が『14:36』の数字を映し出していた。この時計は正確で、一秒のずれもない。つけっぱなしのエンジン音と、外の雨音に混ざり流れてくるラジオの音声が、全ての現実味を失わせた。
いつしかまばらだった雨はおもちゃ箱をひっくり返したかのような洪水へと変わり、自然と今日の『客足』も遠のいていくだろうなと予想された。
『いいか、今回の作戦の総指揮はスカーレット様が自ら指示を出す。――アンネ、君は実動班としてエリーと補佐に周れ。ロケーションは例のバーが入ったビルの地下駐車場、実動班は車の中でスカーレット様からの返事を待つんだ。……B3とB4はもう既に封鎖してある、だからターゲットがエレベーターで逃げようとしても無駄だろう』
目的の店周辺は、雨音を除いてしんと静まり返っていた。
勿論今の時間帯が昼間だというのものあるが、この辺りは飲食店が軒を連ねていて、もう少し人がいてもおかしくはない。護衛部隊が街を出歩くと、辺りは妙な緊張感に包まれる。道を行くほとんどの人間が何か後ろめたそうな顔をして、目を合わせぬように早足で通り過ぎていく事が多かった。
車内で待機しながら、ふとアンネはフロントガラスに降り注ぐ雨水を眺めていた。
「――エリーはさ、この仕事が好きかい?」
助手席に腰かけたまま、アンネは何の気はなしに運転席のエリーに話しかけていた。エリーは手元にある、弾の装填されていない45口径から視線を持ち上げた。彼はほんの一瞬不思議そうに肩を竦めたものの、特別悩んだり言い淀むような様子もなく口を開いた。
「んー、何だよ急に? 改まって聞かれると変な質問だなぁそれ。つーかさ、今日のアンネちゃん、おかしくない? さっきもボーっとして階段から足滑らせてたし、……って思い出しただけで笑える~」
「……え、そうかな? いつもこんな感じだと思うけど」
その言葉に、エリーは更に可笑しくなったよう、今度は声を出してはっきり笑って見せた。アンネとしては別に何か面白さを狙ったつもりでもなかったので、合わせて笑う事もせずそれを眺めるばかりだったが。一頻り笑いの波が落ち着いたところで、エリーが改まったようにこちらへと視線を向けた。
「いやいや、むしろアンネちゃんこそどうなんだよ。俺はそっちのが知りたいぜ」
「――うーん。どうだろう、ね。……僕は他を知らないし……仕事っていうのは、こういうものなのかなって思いながらやってるけれども」
「アハハ、アンネちゃんらしーや。――そうそう、その通り。仕事に好きも嫌いもない、俺もまあ大体そういう気持ちだけど?」
その呑気な会話の内容にアンネはふと気を緩めそうにもなったが、ミラーに映る後部座席――武装した男達の黙した姿に本来の目的を思い出していた。車内には銃火器類のほか模造刀があり、いくつもナイフと弾薬が至る所に積まれていた。更には戦意高揚の為の向精神薬まで完備してあるのを知っている。
男達はこちらとは目を合わせようとはせずに、只シートに身を預けているだけであった。それぞれ俯いていたり、窓の外を眺めていたり、と視線が向かう先は様々だった。恐らく、二人の会話の内容などに興味はないのだろう。
構わずエリーは、話を続けた。
「大体俺、高校中退だからね。他で手っ取り早く稼げる道があるでもないし、ま、不満はねーかなー。つーかネクタイ締めてさぁ、嫌いな相手にもニコニコしながら頭下げて嫌な事にもハイハイッつって外回りとか、何か想像できねえの。そういう自分が。誰かの顔面殴ったり骨折ったりってのもそりゃあ嫌だけど、親父やおかんより年上のジジババにこき使われんのよりはマシかなって思うくらい? うん」
「……そっか。じゃあ、合ってるっていう事なのかな。いい事だと思うよ、きっと」
「まああえて不満を言うなら、もうちょっと給料上げてもらえるようにアンネちゃんからも口添えしてくんない? スカーレット様に」
エリーが笑い交じりに言うと、アンネも合わせて口元に笑顔を浮かべた。
「十分貰ってるじゃない、衣食住の心配もいらないんだし」
「いやあ、だって安定してないしさ? そもそも家族に仕送りしてたら全然残んねえよ。俺んち、親父が二年前に死んでおかんは腎臓患っててまともに働けないし、妹の学費は全部俺が払ってるみてーなもんだから」
そうだったのか。それは、全く知らない話だった。
しかし、自分には家族がいないのもあり、その大変さの真髄までもを理解できていないのだろうとも同時に思った。だから、大変だね、とか、偉いんだね、とか――何だかそういう事を言うのは憚られてしまい結局アンネは心の中でため息を吐いた。
「じゃあ、その、将来の夢とか……ここを出られるとしたら、何かやりたい事とかはある?」
いやはや口に出しながら『馬鹿みたいだな』と少し感じてしまった。……ここを出られるとしたら、なんて少し質問が幼稚すぎただろうか? 夢見がちなその問いにも、エリーは特に訝るような様子もなく、少しばかり破顔させた。
「おっ。何か今日は質問が多いねえ、アンネちゃんってば。……んー、まあ真っ当に格闘技を続けてとしたら、そのまま色んな大会で優勝しまくって有名んなってさ? 二十五くらいで渡米するのが夢だったかなぁ~。マイアミとかLAとか何かオシャレな街で、ファイトマネーがっぽり稼ぎまくってやろうと思ってた時もあったな……で、白人で金髪巨乳のねーちゃん達いっぱいと朝から晩までヤリまくる」
「……ふふ、そっかぁ。何だか君らしい夢だ」
「まー、それももう無理だけどなー」
「――分からないよ。ここで頑張っていれば、ひょっとしたらスカーレット様から許しが出るかもしれないし。数か月の間くらいかもしれないけど」
「それじゃああんま意味なくねえか、おい」
そんな風に会話していると、後部座席の男がアンネの肩をそっと叩いた。……どうやら、何か動きがあったらしい。車内の緊張感が高まったのが分かった。
「……突然失礼したわね。貴方もどうぞ、おかけになって」
まだ三十代そこそこくらいか、そのバーを経営しているのは気さくな男主人が一人と、従業員の男女が一人ずつ。――店主はしばし不思議そうにスカーレットの来訪を眺めていた。その視線には、無数の疑問が含まれているようだった。彼女の訪問の理由にせよ、ボディーガードもつけずに単身で店に入ってきたという事実にも。
「これから話す事は出来れば二人だけでお話ししたいの。私と貴方だけの、二人っきりの内緒のお話なのよ? だから私も部下達を外で待たせてあるわ」
「……」
なるほど。店主はそれで幾分か納得したように一人で頷いてから、従業員の男女に向かって視線で合図を送った。二人がそれを受けて無言で、しかし何か腑に落ちないような様子のままで店を出て行ったようだった。
「しばらく訪れないうちに内装の雰囲気が変わったのね。素敵よ、とても」
スカーレットは店内を見渡しながら、正面のスツールに腰かける店主に向かって微笑みかけた。
「その……スカーレット様。良ければ煙草を吸ってもいいでしょうか?」
「ええ、どうぞ。ここは貴方のお店よ、遠慮なんかする事はないわ」
店主が言いながら、潰れかかった煙草の箱を取り出した。一本を振り出し、火を点けている間にもスカーレットは微笑みを絶やす事なく言葉を続けていた。
「――あの……今日はどういった用件でここへ? お支払いでしたら、三日ほど前に振り込みましたが……あ、いえ、勿論来て下さるのは大変光栄な事ですけど……それに、一か月程前にもそちらの方達がうちに監査という名目で来ました。過去一年分の伝票から帳簿、従業員の労働時間等も全て見せましたし特に何の問題もなかったと思うのですが……」
「ええ。まあ、ほとんどは時間の無駄だったりするわ。それでもどうしても来なくてはいけない事例もあるのよ、悪く思わないで下さる? 簡単な調査みたいなものだから、そんなに身構えなくともいいのよ。場合によってはお時間もそう取らせないから」