#9-5 / The Long Bad Night
まず扉から出たのは、ジャージ姿の(そう、先程エレベーターの中でエリーがすれ違った男のうちの一人である)中年であった。彼はさして警戒した様子もなく、事務室の扉を開けると大股開きに廊下を出た。煙草で黄ばんだ歯に楊枝をくぐらせながら、男は不躾な態度を隠しもせずに、またてんで警戒するでもなく足を進めた。
「……?」
突き当たって、乱雑に物の積まれた陰から姿を見せたのは男にとってどこか既視感を覚える姿形の人影だった。はたと足を止めつつ目を細めていると、その人物はダンボールを抱えた状態でこちらへ向かってくる……男はそこでようやくのようにちょっとばかり用心したらしかった。
「おい、何だお前?」
そうだ、と男は確認するよう目を細めてそれを捉えていた。一歩、二歩、と近づいてくるその影に固唾を飲みつつも、負けじと声を荒げた。配送業の服装をした人影、そう、エリーはこちらと目を合わせる事はなくまるで怯む気配もなかった。それどころかむしろ挑みかかるような気配さえあった。
「……さっきの運送会社のガキじゃねえか。こんなとこでちょろちょろ何やってんだよ、てめえ」
当然のように、答えはなかった。エリーはそこで歩行を止めたもののダンボールを両手に抱えた姿勢のままじりじりと直立している……言葉でのやりとりがないのにも関わらず――いやはや、意思の疎通が存在しないからこその居心地の悪さ、だったのかもしれない。異様な雰囲気を放つその佇まいに、ジャージの男はある種不気味ささえ覚えているのだった。
「こんなとこで何やってんだ? あ? 答えねえつもりかよ、おら」
あからさまに虚勢がかってはいたものの、その尖った声に続けざまスーツ姿の男と派手なスタジャンを羽織った男が飛び出してきた。二人共手ぶらだったが懐に何かしらの装備はしてあるのだろう、それぞれ剣呑さを孕んだ顔つきで足早に雑多な物資の山をのけて近づいてきた。
「どうしたんだ、おい。何かあったのか?……あんま騒がしくするんじゃねえよ、馬鹿」
スーツのたしなめるような声に、ジャージの方は幾分か不服そうに眉を潜めた。続けざま、ジャージが顎先でエリーをしゃくった。スーツの方はすぐに合点が行ったのか、一瞬ばかり凝視してから納得したように肩を竦める。スタジャンに派手な金髪(頭のてっぺんの方は、ブリーチが落ちかかっているのか黒みがかっている)をした若造は、経緯を知らない為か不可思議そうにその光景を見つめていた。
「……で? 何やってンだ? まさか迷子にでもなったか、荷物なんかうちは頼んじゃいねーよ」
困ったもんだ、とでも言いたげな表情を浮かべてスーツの方がため息を吐いた。ジャージの方は仲間が加わった事で強気になったのか、にやにや笑いながら被せるように続けた。
「あのな、ボク。ここ、今、おじさん達が借りてるの。君が勝手に入ってきていい場所じゃあないんだよ。この廊下もね、いわゆる私道だから私道。近道っつって、勝手に通っちゃダメなの。わかる? 私道って意味。水泳の指導じゃあないよ」
ジャージがしたり顔で告げると、金髪の若造が「マジうけるっすね! クソうけるっすね!」とはしゃぎながら手を叩いた。エリーはそれで口の中で小さく、くっだらねー、と呟いた。……が、ジャージは構う事なく声を上げて笑っている。スーツの方は顔をひきつらせて笑っていたが、こちらの方がいささか注意深いようで、エリーから目を離す事はなかった。
「罰金払ってもらいたいけどさ、今日は見逃してあげるから。とっとと下降りな、下。……よし、分かったんなら周れ右だ右、ホレ。しっし!」
調子づいてきたのかジャージが手を叩きながら勝手に切り上げようとした。が、スーツの方は睨み据えるようにエリーを眺めた後に、低い声で言った。
「……おい。壁の方を向け、荷物の中身は何だ?」
スーツの方がじりじりと距離を詰めるようにして問い詰めると、エリーは言われた通り壁の方へと身体を向けた。しかし荷物から手を離す事はなかった。スーツの男の視線が、その不自然な程に大きいダンボールに釘付けになる――彼が動いた事でようやくその意図が分かった。エリーの手首から先が、ダンボールの中に隠すようにしまわれていた。手首が収まるようにそこだけ切り取られているのか、まるでマジシャンの小箱のようだった。ただし、そこから取り出されるの鳩でも花でもなく、音速の弾丸のようだったが。
何かが炸裂するような音がした直後、ジャージの眉間を息もつかせぬ間に撃ち抜いたようだった。スーツがすぐに懐に手を忍ばせたが、エリーはその状態のままダンボール越しの射撃を二度、三度と決めてみせた。本当に一瞬のうち、その血だまりはすぐに出来上がった。銃声に飛び出してきたまた別のスキンヘッドの男だったが、エリーはそこでようやくダンボールから銃を握り締めたままの片手を引き抜いた。火薬のにおいが染みついたダンボールを投げつけると、スキンヘッドが怯んで遅れが生じたようだった。
「ユイ姉、今の……」
「……分かってるわよ! 早く、早くベランダの非常脱出口を使うの!!」
エリーの進行速度は単独でありながら、というか、単騎だからこそなのか彼らが思うよりも存分早かったようだ。勿論、侮っていたわけではなかった。重なり合う銃声を背後に聞きながら、三人はベランダへと飛び出した。事務所内はあっと言う間に、乱戦状態になっていた。ハンドガンが放つ銃声に混ざり、ぱららら、とライフルの音が空気を震わせていた。男達の野太い怒声が、途端にかき消される。
「ユイ姉!!」
「だめっ、早く行って!――絶対に振り返っちゃダメ!」
マズルフラッシュが視界を狂わせ、強烈な火薬と血臭が外気にまで浸透しつつあった。エレベーターは使えなくなるだろう、と予め判断しておいた彼らが使ったのは火事などの時に使う緊急脱出器具のスライド、いわゆる滑り台だった。地上についた後は当然その紐を断絶し、しまうのを忘れなかった。
「……ミキ、平気か?」
「私は大丈夫。だから急ぎましょう」
三人が互いを確認しあってから、再び移動を始めた時だった。従業員の女性、ことユイが、車の鍵を二人に差し出したのは。
この、一秒でも時間が惜しいという時に、悠長に足を止めたものだから振り返った二人ともどこか苛立ったような感じだったのかもしれない。しかし、怒鳴れなかったのは、ユイの顔がやけに深刻そうだったからだろうか。鍵を受け取りながら、ミキは彼女の顔を改まったように眺めた。
「ユイさん、どうしたんですか? 早くしないと……」
「――私の車だけどね、生憎だけどもうすぐ車検切れるんだよね。だからさ、終わったら乗り捨てておいた方がいいと思うんだけど」
何だ。そんな話。どうでもいいとは考えつつも、しかし、不思議だった。問題点は、車の持ち主は彼女なのに、という点の方だった――違和感の正体はすぐにやってきた。ユイは、その場で一つ息を吐き――それから糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
「……ユイ、姉?」
「……駄目よ……立ち止まらないで……、私もすぐ追いかけるから」
言われた通りにはせず、二人はユイに駆け寄って彼女の身体を抱き起した。支える力を失い、彼女の身体には随分と体重がかかっているようだった。そしてようやく気付いたのだ、ユイの背中にべっとりと血痕が広がっている事に。――ああ、と二人は思った。先程の乱戦の末、彼女は二人を守る為に最後尾を歩いていた。その時に負った傷なのだろう、しかし二人を予定通りに逃がす為に黙っていた、というわけか。
「ユイさん、」
ミキの絶望し切ったような声が一つした。――どうして、一体どうして気が付かなかったんだろうといった具合だった。そのまま打ちひしがれたように伸ばした彼女の手を押しのけるように叩き、ユイはまた言った。
「だから駄目だってば、何度も言わせないで。お願いだから行ってよ、もう」
「――そんな、そんなの……」
しかし、二人には猶予など許されなかった。有体に言うならば、ユイの思いを無駄には出来なかった。何か言うべき事は山のようにあったがそれを抑え込み、揺れる視界を封じ込め、二人は千切れるような気持を抱えたままでその場から立ち上がる。だが、拓けた視界に出た時には、武装した数人が既に建物自体を包囲しているのだと知った。――建物内に入り込んできた人数が異様に少なかった狙いは、こういう事だったのか。
「……ネズミは所詮、ネズミだっていう事が分かった?」
ライフルを構えた男の背後から姿を見せたのは、スカーレットだった。
「追い詰められたネズミが出来る事なんて、一体どのくらいなのかしら。ちっちゃなお口で噛みつくのが精いっぱい、といった感じね」
「――、来るな!!」
叫んだのは青年の方だった。同時に青年の手に握られていたのは、戦争映画などでよく見るパイナップル型の、いわゆる手りゅう弾と呼ばれる代物のようだった。手つきは酷くおぼつかなかったが、使い方くらいは分かっているだろう。
「……それ以上近づくなら、俺はこいつを使ってお前達と一緒に死んでやるぞ」
勿論、スカーレットはそれを単なる脅しにしか捉えていないのかもしれない。あまり頓着するような気配は見せず、それどころかむしろ可笑しいジョークでも見せられたように鼻先でせせら笑っているかのようだった。
「本気だぞ、俺は」
「ああ、そう。それはそれは――まあ、あなたが言うように本気なんでしょうね」
クスクスと微笑むスカーレットの姿は、人々が話すように改めて美しい女の仕草でしかなかった。――しかし同時に醜悪さを見せつけられたような気持ちだった。もしこの現世に魔女というものが存在するのなら、きっとこういう姿をしているに違いないだろうと思えた。
「……ミキ、俺が引き付けている間に君だけでも逃げてくれ」
「でも――」
「そうしないと、俺もマスターも、ユイ姉だって報われないんだよ。……だから、せめて君だけでも助けたいんだ」
「無理だよ……例え逃げきれても、かず君がいないんじゃ意味がないもん」
しかし、青年は振り切るようにしてミキを突き飛ばした。何か言いながら彼女を押したようだったが、ミキには聞き取れなかった。ミキは、彼が別の男にライフルの柄で殴り飛ばされる姿を振り返り際に見届け、しかし走り出していた。元来た道を引き返すのは得策ではない、建物側からの追手に見つかってしまう! ミキは気が狂いそうになるのを抑えつけて道を逸れて走り出していた。
「――助けて!!」
声を出すのは当然、良くないとは知っていた。だが、叫ばないとおかしくなりそうだった。夢中で駆け抜け、街の外を目指した。この街は、法律が通用しない。それを利用して、警察官から逃げてくる悪い大人達が飛び込んでくるのをミキは何度も目撃していた。――だったら。だったら、私がここを出れば、警察は、国は、私を守ってくれるという事なんだろうか。考えている暇はない。かず君もユイさんもマスターさんも、それを頼りに私を逃がしてくれたんだから。
「助けて、お願い!……助けて!」
縋りつくように、ミキは涙に覆われた視界のままで道行く人々に倒れ込むようにして叫んでいた。まだ夕暮れ前の通りは、人々がまばらだった。ミキの絶叫に皆、振り向きはするものの誰も立ち止まりはしなかった。
(どうして? どうして誰も助けてくれないの!?)
ミキはぼろぼろになりながら、それでも裸足のまま駆け抜けていた。
「ねえ、助けて、あっちで……あっちで人が襲われているの! このままじゃ、このままじゃ殺されてしまう――助けて、おねが……」
「残念だけど、それは出来ないよ」
振り返ったその人物に、ミキは愕然とたたらを踏んだ。それが誰かという部分よりも、その人物が手にしていた物に目を奪われていた。
「――ユイ、さん」
呼吸を忘れて、凝視した。ついさっきまで話していた筈の彼女は、首から下がなかった。もっと言えば、頭部だけしか存在していなかった。彼女が『処刑』されたのはほんの一瞬のうちの出来事だったのだろう、ユイは何が起きたのかわからないうちにその命を失くしたのかもしれない。……考えても分からなかった。殺されてから首を切りおとされたのかそれが直接的な死因であるのか。――いや。そんな事は今はどうでもいいのかもしれない。
「嘘よ」
そしてそれから――振り返ったアンネ自身が、何故かひどく無念そうな顔つきをしていた。彼はその頭部を地上に置くと、泣き伏せるミキに静かに告げた。……どういうわけなのか、その一連の動作は卑屈な程に美しい。虚ろなその輪郭は、自分に唯一無二の死をもたらす黒い白鳥のようにすら思えた。
ああ、とミキは心のうちで、何かを諦めるような気持ちになっていた。
「お願いだから抵抗はしないでくれ。……大人しく戻ってくれれば僕らだって何もしない、彼女は最後まで拒否していたが……君を匿っていた店主は『君達』を守る為に投降した。――このままだと、次は君がこうなる番だぞ」
アンネの言葉に、ミキは幾分か低い調子で言った。無意識のうち、笑っていたようだった。
「――貴方は、何も知らないんだね」
嘲笑うような、どこか蔑むような様子だった。アンネはその言葉に顔をしかめ、どういう事だといった具合に肩を竦めた。
「貴方達は所詮、体のいい操り人形なんだってユイさんが話してた。重要な事は聞かされず、用済みになれば捨てられる。――でも捨てても、何の得にも損にもならない、そういう存在なんだって」
「……っ」
「投降した、ですって? その意味が分からないの?――今度は、死ぬよりも辛い目に遭わされるっていう事よ」
ミキの声は、最後の方はほとんど泣きじゃくっていて震えを帯びていた。