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#1-3 / 佐竹一郎という男

#01

――とてつもない不快感。視界が昏く、全てがいびつに捻じれていた……とぎれとぎれに、意識が戻りつつあった。


 凄まじい痛みに身を起こす事となり、結果叫びたくなるのをどうにか抑えて上半身を持ち上げる。何かを考えようとすれば、たちまち酷い頭痛に襲われどうにもならない。最後の記憶は……、――やはり何も思い出せない。だが、今、自らの意思でここに寝かされているわけではない事だけは何となく分かった。

 耳を澄ませてみるが、何も聞こえない。すっかり無音という状態に囲まれたその箱の中で、完全に意識は目覚めていた。全身の骨が軋み、自分のものではないような感覚に囚われた。消毒液の匂いが鼻を通り抜ける。何とかして四肢を動かし、力を総動員させて、寝かされているベッドから起き上がった。白いシーツ、白い布団、白い壁、白色で埋められたその部屋には自分以外には誰もいないようだ。

「――、ここは……?」

 

 どういうわけなのか、いま初めて自分の声をまともに聞いた気がした。先程から身を包むこの違和感の正体は、すぐには分かりそうにもないようだ。何か考えだそうとすると、頭が締め上げられるかのように痛み出して、どうにもならない。
 まずは手を動かして、自分の腕を見つめた。右腕には針が刺され、駆血帯に使われるようなゴム製のチューブが巻き付いているのが分かった。それから、太い血管の上を通る針の存在も認めた。吊るされた点滴の袋が揺れるのが見える。鎮痛剤でも投与されているのか、意識はまだ混濁としがちだった。

(とにかく、ここを出ないと駄目だ)

 

 何故、何故自分はそうしなくてはいけないのか。やはり思い出そうとすると鋭い痛みが走り、どうにもならなかった。けど、そうせねばいけない。使命に駆られたように、そうする事を運命づけられたかのように、邪魔な点滴を引っこ抜く。次いで、戒めの解かれた手を使い、ふらつく身体を支えながらベッドから降りる。周囲には目もくれずさっさとここを出て――と行きたいところだがやけに嫌な予感がして、本能的に辺りを見渡した。身を守るものを持っていなくてはいけない、と脳のどこかが警鐘を促していた。

 

 しゃがみこみ、ベッドの下等を調べたものの決定的な武器は見当たらない。しかし、ベッドのすぐ隣――テレビの置かれたキャスター付きの台の上に目をやった。
 

 テレビの前には、一冊のボロボロになった雑誌が置いてあった。何気なく手に取ると、随分と読み込まれた跡が認められ、折り目がついていた。『魔法少女★ベイビードール特集』と、虹色のフォントが目を引いた。女児向けなのであろうアニメイラストは、赤毛でツインテールの女の子が杖をかざしている。
 

 特に役に立ちそうではないので、それを元の位置に戻す。それから、何か情報が得られたらと思いテレビの電源を入れた。映像から間髪入れずに流れてきたのは、今しがた視界に入れたばかりの女の子と同じキャラクターだった。

 

『……りりかる、まじかるっ! ベイビードール、さんじょお!!……悪人に人権はないっ、正義の魔法少女が華麗にジャッジメント!』

 

 どうも、リアルタイムの放送ではなくDVDのようだ。テレビにチャンネルを合わせようとすると、画面が真っ暗なままで何も受信してくれない。……空のトールケースを見つけ、手にした。ひょっとすると、ここの病室の主はアニメオタクだったのだろうか――と考えてから、その主が自分であった事を思い出す。
 今はそれは置いておく事にして、使えそうなものがないか引き出しを開けた。

 

――ライター、シャープペンシル、コインが数枚。それから車の鍵……

 

 二段目の引き出しを開くと、くしゃくしゃになった封筒があった。ウサギの絵柄が入った封筒で、何か手がかりになるかとそれを手にした。既に開封された形跡のあるその手紙だったが、誰の手に取って開けられたかまでは分からない。中には緑の便箋が入っていた。和紙のような触感のあるその便箋には、拙い字で『こんどは、べびどおるちゃんの、すてつきがほしいです そよ より』と平仮名で書いてあった。
 

 そよ、というのが名前なのだろうがやはり何も思い出せそうにない。子どもの字なのは明確であるが、それ以外には何も得られそうになかった。ため息と共に、しかし何となく手紙を病衣のポケットにしまっておいた。
 
 病室を出ると、やはり不気味な程の静けさが無秩序に広がっているだけであった。電灯が付きっぱなしの辺りに人気はなく、古ぼけた椅子や葉の伸びきった観葉植物が置かれているのが目に入った。廊下を何歩か進み、全くの無音、というわけではない事に気付いた。見上げれば、天井に備え付けられた空調が唸りを上げている。

 

――誰もいないわけではないようだが……

 

 依然、状況は何一つ掴めないままに足を進めていた。半ば、歩かされているような心地ですらあったが、どういうわけなのか漠然とここを出るという思いだけは頭にあった。しばらく歩き続けていると、曲がり角でさしかかった辺りで奇妙な音を耳にする。

 

「……」

 

 なるほど。先程、病室を出る際に感じた『嫌な予感』の正体はコレか――自然と壁に添うようにして息を潜め、音の方角を見つめる。それから、どうして自分がこんな動きを出来るのか同時に不思議にもなった。あらかじめ身についているのだとは分かっていたが、以前の記憶が砂粒程も残されていない今の自分にとっては違和感以外の何物でもなかった。

 

 壁から覗き込んだ先にいたのは――、しばらく見つめ合って、適切な言葉が思い浮かばなかった。大きさにしてみれば、人間の子ども程のサイズだろうか――下半身、腰より下は蜘蛛のような形状をしている。その手足は金属で、出来た刃物のように尖っていた。それよりも目を引いたのは、その上に乗っている胴体の方だ。
 

 古ぼけた、陶器のような質感。球体で繋がれた関節。後頭部と片目をくり抜かれた人形のような外観をしたそれは異様でしかなかった。思わず身を引き、声を漏らしたのが良くなかった。果たしてそいつに意思があるのかどうかは不明瞭だったが、『それ』は節足動物のように手足を動かし、こちらを捉えたようだった。鉄製のものであろう脚が床の上を移動する音で、我に返った。

 

「……一体何の冗談だ?」

 

 冗談ではない証拠に物体Xこと蜘蛛人形は機敏な動作で距離を詰めてくる。慌てて逸れるようにして横手に飛んでかわした。背後の壁が、金属の脚で貫かれたのを振り返って見た時にはもう既にそいつは動き出していた。
 

 考えさせてくれる暇は与えないつもりらしい。
 

 身を低くしたままで、今度は二歩後退した。病衣のポケットにしまってあったボールペンを抜き出して、相手を見据えた。金属足のせいで底上げされちゃいるが、体格的には自分と同じくらいだろうか――金属の立てる音が迫るさなか、姿勢を保ちつつ急所がないか探った。

 

(こいつには、外傷がある。血が流れているという事は内臓が存在している筈だ……だから物理的に殺せないわけではないだろう)

 

 懐に踏み込む覚悟で待った、相手の動きを。
 大丈夫。
 動きさえ分かればそう恐れるべき相手ではない。汗ばむ手でボールペンを握り締めていると、すぐさま第二撃目が襲ってきた。前脚による横薙ぎだったが上半身を逸らしてかわした。よろめいたが、転びはしなかった。背後の壁に手を突きつつ、そいつを見た。すかさず、懐に飛び込むように身体を密着させる。体の間、右の拳を伸ばし、ひねるような動きで叩き込んだ。確かな、手ごたえがあった。それを信じるようにして、拳を更に捻り込む。左の手を添えてぐっと押し込んだ。

 

 怪物の喉元には――深々とボールペンが突き刺さっていた。痛覚はあるのかないのか、分からない。只、怪物の笑顔を浮かべた口元から大量の血が零れ、噴出し幾分こちらに掛かり、それから床へと流れ落ちた。それから化け物の上体が痙攣し、活動を停止させていくのを両手の先に感じながら……やがてその胴体を蹴り飛ばした。怪物はこちらに腹を見せる格好で、それこそ死にかけた虫のようにひっくり返ってしまった。

 

――……、

 

 しばし呆けたように、後ずさった。恐ろしい程に息は上がっていた。顔やら手やらに付着した得体のしれない血液を拭いながら、背を向けた……その時であった。

 

「……!」

 

 金属が軋むような音を聞く。反射的に「は」と声を漏らし、振り返った。まだ生きていたのか、と己の詰めの甘さを思い知らされる事となった。――おまけに武器を残したままとは、何という浅はかさか。やはり自分がまだ何か完全体のようなものになりきれていない未完成品なような気がして、ともかく……と、考えるのを止めた。今は一旦身を引き、体制を立て直すしかないか? この弱点さえもよく分からない相手が相手では――、ため息を吐きかけた矢先に、パン、という音と共に怪物の頭部が揺れた。驚愕に慄いたその耳に、更にもう一発、弾丸が叩き込まれたのが分かった。が、金属部分に着弾したせいなのか、今度はさしてダメージがないように思えた。

 

 よろめく怪物の身体の向こう側の景色に、その射撃主はいた。ここまでに辿り着くのに弾が尽きたのか、その主はこちらへ歩きながらハンドガンを横手に捨てた。近づいてくるその人影に、何故か強烈な既視感を抱く。――何だ? あれは……あれは確か……小柄な背丈に、ところどころフリルのあしらわれた衣装。揺れるツインテール。

 

 病室を出る間際に見たアニメ映像が頭を走るようにしてよぎる。そうだ――、あれは――、

 

「……『魔法少女ベイビードール』?」

 

 呟くのと同時にその少女は背後に手を回しながら、装備品であろう銃床を切り詰めたショットガンを、金属音を響かせながら抜き出していた。少女の可憐な見た目には、ましてや先に見た魔法少女の武器には大変似つかわしくない代物だった。その上随分と堂に入った構え方で、ベイビードールは膝立ちの姿勢で、保持していたショットガンの引き金を絞った。火炎放射器のような火花が銃口から飛び散ったかと思うと、蜘蛛人形の胴体が半分ばかり、消失していた。

 

 ベイビードールは素早くポンプを動かし、慣れた手つきで次弾の装填をさせた。散弾を吐き出し終えた赤色のシェルが排出され、床に転がった。一秒の隙さえも見当たらない動作に、こちらが後れを取ってしまった気にもなった。

 

「――、背中を向けていいのは壁だけじゃなかったっけ?」

 

 不敵に笑いながら、ベイビードールが呟いた。それから、彼女はもう一度撃った。こちらを巻き込む可能性などあまり考慮していないように見えた。名前も知らない化け物は、仰向けに倒れたかと思うと、名前も知らない少女に倒された。己からな流るる血の海に沈み、それきり動かなくなった。

 

「無事で良かった。あと一歩遅れていたらどうなってたか分からないね」

 

 名前の知らない……そう、便宜上ではベイビードールと名付けよう。少女は立ち上がり、こちらを安堵の表情で見つめる。

 

「……お前は何だ? アニメの『魔法少女ベイビードール』? あれはテレビの話じゃないのか」
「――何だって……、っうぷぷっ! 冗談キツイっすよぉ、運び屋さんってばぁ!」

 

 少女はしばしきょとんとしていたが、やがてこちらのジョークだと受け取ったのかころころと笑い出した。ついていけない。話に。

 

「まさかアンタ、元相棒の顔を忘れたのか? 俺だよ、俺っ」

 

 存外、容姿には似つかわしくないさばけた口調で言い、それからベイビードールは思い出したようにその衣装に手をやった。俺、という事はつまり男性という認識でいいのいか? 見た目は少女でしかないが、彼、でいいのか?

 

「あー、そっか。俺は頭が吹っ飛ばされちゃって器を入れ替えたから、姿がまるっと代わってるからな。分からなくて当然だな」

 

 言いながら彼が取り出したのは、名刺だった。多少血がついているのが気になったが。受け取り、それを見た。

 

「……“アーノルド=ロマノフ”」
「何だい、その初めて目にするような口ぶり? アーノルドだよ、アンタに雇われてた密偵だ。本体が機能停止しちゃったから、今はこの姿だけど」

 

 名刺と、目の前の少女を見比べても何も思い出せそうにはなかった。アーノルド――アーノルド――何だか覚えているようないないような。どこかで話さなかっただろうか? 

 

「……なに? まさか完全にど忘れしてるパターン?」
「……何となく分かる部分があって、そうじゃない部分が入り乱れてる」
「運び屋さんの場合、精神融合に失敗しちゃったのかもしれないねー……俺は完全に俺のままだけどね、見た目以外は」

 

 目の前にいるその少女のような容姿をした人物に、記憶は全くない。というか、自分自身が誰なのかもよく分からないのだけど。名前さえも思い出せそうになかった。渡された名刺を見るに、彼は表向き記者を営んでいるようだが、その本当の姿は密偵なのだという。まるでよくある荒唐無稽な設定の映画か、或いは三流の小説にでも出てきそうな設定だなと思った。
 名刺を病衣にしまいつつ、再びアーノルドを見た。

「――俺は何なんだ? 一体」
「……、それはちょいと難しい質問だねぇ」

 

 少女――否、青年、アーノルドは考え込むようにしてから、その顔を持ち上げた。そもそもこのアーノルドという青年にも、何の覚えもないのだから話は難航だった。どこから尋ねるべきなのか悩み、結局どこから切り崩すべきか分からずため息を吐いた。

 

「じゃあ質問を変える。俺は、死んだのか?」
「多分。俺もアンタも――本体はもう、死んでるんだと思う」

 

 こちらが考え込んだ割に、アーノルドの方は幾分か即答だった。少なくとも、自分よりはこの状況について把握していて、且つ飲み込んでいるという事か。

 

「……なるほど。なら、ここは天国なのか?」
「――むしろ反対だ。ていうか地獄かもね」

 

 地獄――、半ば苦笑に近い形で笑うアーノルドの顔を見て、ふと思い浮かべたのは先程の見た事も聞いた事もないような化け物の存在だった。……記憶の抜け落ちた自分を信じるのは、もしかしたら間違いなのかもしれないが。

 

「さっきの化け物は何だ? 俺とお前が倒した、あの物体」

 

 それから、立ち止まり、少しだけ振り返った。あまりまじまじと見返すのも気が引けて、横たわったままの遺体を顎でぞんざいにしゃくった。アーノルドは何故か、一人納得するように「ふぅん」と呟いた。少々大袈裟な感じで、いささか芝居がかった言い方に感じた。

 

「アンタには化け物に見えるんだ?」

 

 続けざまに吐かれた意味深な言葉に肩を竦めた。どういう――と喉にまで込みあげた声を飲み込んだ。アーノルドの目が先程戦っていた時のそれに変わっていた。

 

「……あれは全部ここの『住人』達だよ」
「住人?」
「そう。完全に正気を失くしてる」

 

 何がそう思わせるのか決定打はなかったのだが、直感的に『アーノルドは何かを隠している』のだと思った。そしてそんなこちらの疑いを察知したように、アーノルドはすかさず言った。勿

 

「正直に言って、俺にも分からない事の方が多いんだ。……だからあんまり答えにならないと思う、頼りになんなくてごめん」

 

 露骨な怪しさなどは抱かせず、アーノルドはついこちらが気を許しそうになるくらい極々自然と返してくる。彼自身の持っている雰囲気がそういうものなのか、それも彼の計算のうちであるのかまでは未だ分析出来そうにない。
 

 ふと、アーノルドが抱え持っていたショットガンをこちらに向かって差し出してくる。改めて見ても、小柄な彼の腕には余るものだった。

 

「運び屋さん、アンタもいるだろう? 武器」

 

 言いながら差し出されたショットガンを見つめ、ようやく聞きたかった事をまず一つ思い出した。差し出されるままに受け取ったショットガンは、先程の発砲のせいか熱を持ったままでまだ随分と温かかった。

 

「その運び屋さん――ってのは何だ。俺の名前か?」
「ありゃま、それも覚えてないの。……あ、ちょっと待って。弾詰めるよ」

 

 ちょっと苦笑いに近いような感じで口を緩め、アーノルドは肩を竦めた。アーノルドはスカートのポケットをあさり、弾丸をひとつかみすると慣れた動作で銃身に込めていくのだった。無造作な感じでそれを再び押し付けると、魅せられたようにそれを手にした。

 

「何かおかしな話だけどさ、そういや俺もアンタの本当の名前を聞いた事がなかった。長年一緒に仕事してたにも関わらずにね。それにアンタ、しょっちゅう言ってたもの。『俺は誰でもない』、ってね」
「……誰でもない」
 
 自分がかつて吐いたらしい言葉。それも勿論思い出せない。口に出して反芻してみたところで何の感情も沸かなかったし、何一つアテになりそうにもなかった。

 

「そう。名無しの権兵衛、ネームレス」

 

 アーノルドが何故か勝ち誇ったように言うのが気になったがともかくとして。自分は――そう、名前がないらしい。なら素直にそう名乗るのが一番良さそうだ。今の自分はきっと『誰でもない』のだ。何故かとてもしっくりとくる気がしたし、ちょうどいいと思った。いい意味でも悪い意味でも、ひどくお似合いだった。

 

「お前の事は?……アーノルド、でいいのか」
「運び屋さんの好きに呼んでくれていいよ。でもまあ、出来れば本名は避けてくれた方が面倒にならなさそうでありがたいけど――」

 

 言い置いて、アーノルドはややあってから再びその口を開いた。何か閃いたような表情と共に。
 
「あ、そうだ。アンタさっき言ったよね、俺を見た時。魔法少女なんたら~って。何だっけ」

 

 興味深そうに聞いて来るアーノルドの仕草や見た目など、もはや完璧に少女のものでしかない。あまりにも隙のない動作に、ついじろじろと観察するような視線を向けてしまう。モルモットを検分するような目つきで彼を見た。変な下心は抜きに、興味本位からであった。

 

「あっ、何か目つきイヤラしーよ、スケベオヤジめ。ちなみにこの身体も男だから、変な事しようとしてもちょっと待った~だからね?」

 

 目ざとく見抜いたかと思えば、そんな風に釘を刺して来たので何故か無性に負かされたような気になる。

 

「……、じゃあ何でわざわざそんな女のような格好をしている。間違われても仕方ないだろう」
「それだよ、それー。だって女の子に見えたら誰だってちょっとは油断するだろ?」

 

 ね、と同意を求められて頷くより他ないのだった。それは確かにその通りだ。よもやこんな可憐な少女が、未知の化け物相手に立ち回り物騒なショットガンをぶっ放すなどと誰も予想だにしない。
 先程の幼児向けのアニメーションが、脳内をキラキラと過った。

 

「『魔法少女ベイビードール』。さっき、病室から出る時に目にしたんだ。……なあ、全く覚えていないんだが、まさか俺はそのアニメにはまっているようなオタクだったのか? 部屋にDVDやアニメの雑誌が置いてあったのを見たんだが」

 

 その真相を知るのは少し恐ろしい気もするが、少しでも思い出すキッカケになるならと口にしてみる。アーノルドはしばらくきょとんとしていたし、笑い飛ばされでもするかと思ったが、案外真剣に考え込んでくれたようだった。

 

「え……、いやぁー、それは聞いた事ないけどなぁ? どうなんだろね。アンタ、本当にほとんど自分の事を話してくれなかったからね」

 

 心なしか少ししんみりとした口調で語り、それからアーノルドは昔を思い出しているのか目を伏せた。そんな風に言われたところで全くピンと来ないのが歯がゆく、もどかしかった。

 

「でも、それならちょうどいいや。この姿の時はベイビードール、そう名乗らせてもらう事にするよ。――ネームレスとベイビードール、って何かめちゃくちゃクールじゃない? これから二人で何か始められそうだよ。ヒーローってのは大体コンビでいる事が多いからさ、俺はアンタのサイドキックって事で一つ。どう? ここを出てからもまた仕事しようよ、一緒に」
「……一体何を始める気だ、ただでさえ何も分からないんだ。益々混乱させるような事は言わないでくれ」

 

 クールかどうかはさておきにして、呼び名がある方が何かと融通が利くだろう。全てを思い出すにはまだもう少し、情報が足りないような気がするが。

 

 

 無線がまた新たな警報作動を知らせたようだった。一番近くにいた中年上司がうんざりした様子でマイクを取って、了承を伝える。
 

……私はというと、そんな中でついうとうととしてしまったけれど、けたたましいコール音のせいでぱっちり目が冴えてしまった。大体、台風や強風なんかでの誤作動や、犬猫の侵入なんかが多いから本当に何かが起きている事は実は過去に数えられる程しか直面していなかったりする。勿論、何も起きないに越した事はないんだけどさ。

 で、大儀そうにそれに応じた上司は細野と言う。ひょろりとした背格好で、キノコでも生えてそうなジメジメした風貌。痩せ躯の体つきから大よそ想像できないけど、鋼鉄のような胃袋と下品としか言いようのない肝臓を持ってるんだとか。
 

 私はなーんか生理的に嫌で、飲みの席でもこの人の近くに座る事はないけれど、一緒に食べ飲みした人は『ザルを超えたワクってのは、ああいうのを言うのね』とか言って笑ってたような。
 

 そんな細野さんからはいつもアルコールの臭いがぷんぷんとしていた。匂うとか漂うとか、そんな生易しい表現ではなく『垂れている』といった方がしっくりとくるレベルで。

 

「……病棟の方で何かあったの?」
「さあね、どうせまた誤報じゃない?」

 

 黙々と事務作業をしている中、ひときわ目を惹く青年がいる。私は彼に気付かれないよう、チラリと視線を送った。

 

「おい、木崎」
「何ですか」

 

 細野さんに絡まれて返事する彼の姿を見て、私はまたため息を漏らしていた。
 こんなに完璧な人を初めて見た、というくらい彼の存在は私にとってはひどく美しかった。本社から派遣されてきたという木崎さんは、初めて見た時、私と同い年くらいだと思ったのに何と五つも年上だった。今年三十になるらしいけど、もっとうんと若く見えた。それは決して幼稚だとか子どもっぽいという意味ではなくて、見目がいいんだろうという話だ。きっちりアイロンが行き届いた制服はいつも綺麗で清潔感に溢れていたし、セットされた黒髪も無造作な感じでオシャレだった。

 

「ちょっとお前見てこい、どうにも一筋縄じゃいかない異常事態みてぇだからな。……それとも管轄外だからと放棄するか、警らってのはぁ?」

 で、細野さんはこの木崎さんが気に食わないらしい。本社にいた人員ってのも好きじゃないらしいし、何より木崎さんのこの性格が合わないんだろう。木崎さんはよく周りの人から『あいつは何考えてっかよくわかんねえなー』なんて言われてるけど、私は毎日観察しているのもあってか、大体分かってきた。彼は女に興味がない。むしろ、人間に興味がない。飲みの席でもそうだし、上司らが「今日は俺のオゴリでキャバクラいくぞ~」なんて提案したらさっさと断って帰ってしまう事で有名だった。家に帰って何してんの? ゲームでもすんの? オタクなの? 
 

 初めは不思議だったけど、なんにも不思議じゃなかった。木崎さんは別に、誰とも触れ合いを求めていないし、興味のない事には深入りしないだけなんだろう。こっちが心配になるくらい、彼は人というものに興味を持たない。少なくとも、ここに存在している人間には誰一人として興味を示さない。なんていうか、世間というか社会というか、会社や組織、そして仕事そのものを馬鹿にしていたり軽蔑している人はたまにいる。けど、彼の場合はもっと大きな尺度で目に見える世界そのものを見下している。

 

 って、いやいや。いやいやいや。上司相手に、そんな見下した目ぇしてていいんかい? ようわかんないけど出世とかさ、大丈夫なの? けど、そういった疑問はいつしか興味へと変わり、私が木崎さんへ恋慕の情を抱くのも早かったように思う。

 

「ああ、はい。分かりました。行ってきますね」

 

 いつものように唇の端を持ち上げて、細野さんの嫌味をやり過ごす木崎さんを見て私はまた胸が高鳴った。なんて素敵なんだろう。この人。どうしてこの人はこんなにも強くいられるんだろう、そして私は何でこんなつまらない男に惹かれるんだろう。特に反論するでもなく、動じた様子もなく、木崎さんは書類を一旦まとめると椅子から立ち上がった。

 このように、彼はいつも何をしても応えないのだから見ている方もいっそ痛快だ。計算なのか天然なのか、いや天然なんだろうなぁ。
 
「おい木崎」
「ん?」

 事務所を出かけた木崎さんを呼び止めたかと思うと、細野さんは声を潜めながらその足を進めてゆく。背丈としては細野さんの方が劣るものの、持ち前の威圧感のせいなのかさほど身長差を感じさせないのが不思議だった。

 

(何て言ってるんだろう、聞こえないなぁ)

 

 私は持てる限りの聴力を持ち寄って、頑張って耳を澄ませたのだけど全然ダメだった。気になる。気になる。気になる。木崎さんがどんな顔をしているのかも、見たかったのに。

 

「……お前、ちょろちょろと何嗅ぎまわってんのか知らねぇけどな。変な考えは起こすもんじゃねえぞ」
「……?」

 

 細野さんは何だかそこでイラきしたように、一歩踏み出しているのが分かった。

 

「テメェの叔父みてぇになりたくなけりゃあな、大人しくしとけってんだよ」

 

 声を荒げたみたいだったけれど、具体的に何と言ったのかは定かではなかった。なかったけれど、木崎さんはやっぱり怒鳴られてもまたいつもの調子で「はあ」とか「そうですね」とか今一つピンと来ていないような調子で返すだけだ。

 そもそも木崎さんは、この細野さんと同じ土俵に立っていない。立っている場所が全く違う。彼はこれからもずっとそうやって、細野さんや私たちのいる場所には降りて来る事はないんだろう。


 

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