#1-4 / 佐竹一郎という男
#01
「何も怖くなんかないさ。恐れる事なんかないぞ」
――ああ、それは……自分に空手をはじめとしてあらゆる事を教えてくれた、敬愛する叔父の言葉だった。それはとてもありふれた言葉だったけど、今の自分という存在に大きく影響を与えたと言っても、きっと過言ではなかった。
叔父の誠二は、母の弟だった。結婚はしていたけれど、子がいなかったのもあり、自分や妹達の事を本当の子のように可愛がってくれた。日焼けした肌に程よく筋肉のついた「いかにも」なスポーツマンタイプで、どちらかというと運動音痴でインドア派の妹達は少し面食らう事もあったようだった。
叔父は自分に空手だけではなく、あらゆる知識をも叩き込んでくれた。ただし、学生時代に成績は良くなかったと自負するだけあって、学校で教えるような勉強はまるで駄目だったけれど。
とにかく叔父は、色んな事を教えてくれた。それこそ合法、非合法を問わず、叔父はあらゆる知識を自分に教えてくれたのだ。空手の型は勿論のこと、他のスポーツのやり方から、女の口説き方まで。いいかい、これは学校じゃあ教えてくれないような人生の事なんだぞ。そんな風に、いつも叔父さんが笑いながら話してくれるのが大好きだった。
ある日、そんな叔父さんがいつものように空手の稽古を始める前。少し様子がおかしかった。いや、おかしいという程ではないのかもしれないが、とにかくいつもとは違った。険しい表情で、ずっと誰かと携帯で電話し合っていた。時々強い口調で、怒鳴りそうになる場面も見られた。その隣でずっとストレッチをしながら、叔父が電話を終えるのを待った。
「どうかしたの?」
「ああ、昔の仲間が――」
言いかけて、叔父はすぐにその言葉を止めた。
「まあ、ちょっとした口喧嘩をしちまったな」
「おんな?」
「ハハハ、そうだったらいいんだけどなー。……お前は? クラスで好きな子、いないのか?」
叔父さんは笑って誤魔化して、話をうまいことすり替えたように見えた。
「あんまり女子と話さないからね、俺」
「ほー。そりゃ残念だ。とっととかわいい子見つけて、声くらい掛けちまえよ。お前のルックスなら嫌がられる事は、まあまずないだろうさ」
そう言って豪快に笑ういつもの叔父の顔を見れば、さっきまでの不穏な気持ちもやはり杞憂だったのかと思えてくる。
叔父は昔の話を、ほとんどしない。ヤンチャしていた時の話はたまに武勇伝のように、自分が聞いても脚色しているんだろうなと分かるくらいに大袈裟に語ってみせるけれど、そのどれもが『叔父の中心部』の話ではないからだ。きっと、もっと叔父には別の過去がある。そしてそれこそが、今電話していた『昔の仲間』に結びつく部分なんだろう。
数日前のその叔父の姿は、何となく自分の中に腑に落ちないものを残したままだったが、どうする事もできずに、時間だけが過ぎて行った。『事件』が起きたあの日は、叔父に特に変わった様子はなかった。遅くまで稽古して、気付くと時刻は二十二時をとっくに過ぎていた。今思えば、いくら特例だからってそんなに好き勝手融通が利くものなんだろうか? 余程、叔父とこの学校側の繋がりが深いのだろうという事が伺えた。
流石にこんなに遅くまで付き合わせたのは指導者の責任だからな、と叔父さんは笑い笑いに言い、自分の車に乗せて帰りに夜ご飯をご馳走してくれた。叔父とご飯に行くのはそう珍しい事でもなかったのだけど、学校の帰りにというのはまた特別な事のように感じられたのを覚えている。
ご飯を終えて、しばらく車を走らせていた辺りだろうか。もうすぐで家に着くというところで、叔父はしきりにバックミラーを気にし始めたかと思うとばつが悪そうに舌打ちを一つした。一瞬、自分に向けられたかと思いどきっとしたが、どうもそうではないようだった。
叔父はいつもとは違う道に逸れたかと思うと、険しい表情のままでアクセルを踏み込んだ。それから叔父は、街灯もほとんどないというのにも関わらずにライトを消した。それでも状況は変えられなかったのか、以前厳しい雰囲気を纏わせたままで、叔父はしびれを切らしたように車を停止させた。
こちらが何か言うよりも早く、叔父は早く降りるように促してきた。理由を尋ねようとすると、緊迫した様子で声を出さないように要された。事態を飲み込み切れないままに車を降り、叔父の指示に従い暗がりへと移動した。
「叔父さん? どうしたの?」
「……いいか、今から俺の話す事を――、よく……よく聞くんだ」
目の前では今まで見た事もないような、これまでどんなに厳しい稽古中の最中でさえも――、いや、それはどうだろうな。叔父さんの稽古は厳しかったから。でも、そういう時の顔とも違う、ともかく鬼のような形相を浮かべていた。
「叔父さん」
「これからどんな事があっても、『何か聞こえても』、絶対に振り返らずに真っ直ぐ家に帰るんだぞ」
「……え……?」
「……家に帰ったら、お前の父さんと母さんに伝えて欲しい事があるんだ。『勝手な事をしてすまなかった』と――」
強張っていた叔父の顔が、その時だけはほんのちょっとだけ悲しい色が差したが、すぐにまた唇を引き結んだかと思うと険しい顔つきへと切り替わった。
「それから、みんなの事をずっと愛していると」
「さっきから……、さっきから一体何を言ってるの?」
「……くそ!」
それらが全て、まるで一つの単語のようだった。
もどかしそうに言ってから、叔父はこちらの肩を突き飛ばすような形で立ち上がりもはや視線を向けずに背を向けてしまった。叔父はすぐさま身を隠すように壁を背に、眉間に皺を寄せながら何かと向かい合っていた。叔父さん。何度かそう呼んだ気はするが、許されない事のような気がして、結局は踏み止まるようにして一歩後ずさった。
「駄目だ。早く、早く行くんだ。必ず振り返ったりするなよ。これからはお前が、お父さんとお母さんと、それから妹達をずっとずっと守っていけ。約束だ、俺との最後の――いいか、分かっ」
何もかもが、あっという間に進行していた。
乾いた音と共に、叔父の頭部ががくんと下がった。そこで、壁伝いに膝から崩れ落ちた叔父は――頭が半分なかった。肌が焼け、肉が焦げる音を聞いた。人間はこうもあっさり壊れるものなのか、としみじみこんな時に思った。瞬間、直前までの叔父の言葉を思い浮かべた。振り返らずにこのまま行けと。……彼は確かに――確かに、そう言った。
叔父の遺体の傍に、人影が近づいてくるのを察知しすぐさまその場から身を翻した。足音を立てないようにして、夜の道をひたすら走った。不思議と記憶はそこで途切れている。そもそも、この記憶だって怪しいものだった。どこまでが正しく、またどこまでが自分の捏造なのかも分からない。ただ――、
叔父は殺された。誰かに。それだけは違いなかった。
次の日公表されたニュースでは、『通り魔による犯行』、『死因は刃物による刺殺』という文面で、地元の新聞にとても小さく掲載されていた。叔父さんの奥さんの元には、「犯人は逃亡中で、目撃情報がなく捜査は困難を極める。証拠の為に、遺体はしばらく預からせて欲しい」との説明付きで要請があったそうだ。
――刃物だって? そんな馬鹿な。あの時、叔父さんは……
分からなかった。だが、いくら考えたところで、何も思い出せそうにはない。思い出せるのは頭部を半分失くした叔父の身体と、「俺の代わりに家族を守るんだぞ」としきりに繰り返していたあの言葉の断面だけだ。
セットしておいた、アラームの音で目が覚めた。頭が少し重かった。身体もそうだった。昨日、比較的早めに寝付いたのに疲れが全く取れていない事を知り、ベッドの傍に置きっぱなしになっている夜用の栄養ドリンクの空き瓶を見た。半身を起こし、がらんとした室内を見渡した。どことなく気怠いのは、自分がもう若くないという事なのか、夢の後遺症なのか、判別がつかなかった。
そのままになった空き瓶と、広げられたままになったコンビニの食事の殻を回収する。昨日は疲れ切って自炊する気にもなれなかった。風呂に入ったらそのままベッドになだれ込むようにして眠りについて、今に至る。
「……」
ああ、そうだ。ゴミ出さないとな。あと、洗濯物も溜まってるんだっけ。
最近では面倒な事は、全部溜めてやるようにしている。その日その日のうちに片付けるのが、億劫だった。顔を洗い、歯を磨き、ヒゲは恐ろしい程に生えないので剃らなくていいのは楽だが、髪をセットして、ようやく身だしなみが整う。
顔を洗い、幾分かしっかりしてきたところで部屋に戻ると、そういえば昨日は聞かずに放置したままにしてあった留守電が届いていたのを思い出した。スマホを操作して、録音されたメッセージを再生する。
『木崎くん、全然返事くれないけどどうしたの~? 同窓会、そろそろ店の予約も始めたいから来るかどうかだけでも返事ちょうだいね。じゃっ!』
同窓会。そんな事を聞いても、ピンと来なかった。何故ならこの、電話をしてくれた相手に覚えが全くないからだ。そしてそれが小学校の時の同窓会なのか、中学校の同窓会なのか、高校なのかも、判断ができなかった。
おかしな話だった。家族に小中高と卒業アルバムを見せてもらっても、『自分の記憶』と全く違っていた。誰一人として、自分が共に机を並べてきた筈の友人達の顔が見当たらなかった。スマホに登録されている筈の知人達の名前も、圧倒的に知らない人間の方が多かった。
勿論、そんな話をすれば間違いなく気の触れた人間だと思われてしまうのは分かっていた。その時は、家族の事も信用できなかった。だから何も話さないで、自分なりに今の自分がどういう立場の人間なのかを観察する事にした。それで分かった事。職業や家族構成、年齢等にはほとんど変わりがない事。住居も、会社の独身寮に入っていて同じだった事。けど交友関係が、今までとは全く違う事。親しくしてきた人間も違っていた事。……叔父はこの世界でも死んでいた事。
初めは自分が何か、叔父を殺されたショックで精神が病み、自分の殻に閉じこもり長い夢でも見ているんじゃないかと疑った。まぼろし。妄言。ゆめ。そんなもので構築された世界の延長上に、今の自分はいるのではないかと思った。或いはその逆で、叔父を失うまでの時間が自分にとって都合のいい妄想だったのではないかとも。
または、撃たれて植物人間になったまま病院のベッドで寝かされている、昏睡状態の叔父が見ている夢の世界だとか。……窓を開けると、どんよりとした空が視界いっぱいに飛び込んできた。
流れ込む外気を感じつつ、カラスの声を聞きながら一日の始まりをぼんやりと受け止めていた。しかし、あまり感傷に浸っている場合でもない。ゴミをまとめると、朝ご飯も食べずに部屋を後にする。
鍵を閉めると、ちょうど隣の住人も部屋から出てきたのを知った。反射的に肩を竦めてしまったけど、慌てて取り繕い、気付かないふりをする。出来れば顔を合わせずにいたかったけどそれはいくらなんでも、態度が悪すぎるか。
「……あ、おはようございます」
そんな事をぐだぐだと考えていると、あっちから声を掛けられた。軽く会釈しておくと、向こうもうっすらと微笑んで、その年ごろの社会人らしく慣れた様子で頭を下げた。あまりじろじろ見ないようにして、さっさとエレベーターに乗ろうとすると、向こうも走ってきて「乗ります、俺も乗ります」とゴミ袋片手に慌てた様子で走ってきた。
「あーっ、すんません! どうもッ」
小走り気味に箱の中へ滑り込むと、彼はぺこぺことこちらに向かって頭を下げる。いえ、と返事しておいたけど、とても愛想のないぶっきらぼうな感じになってしまったのではないかと少しだけ後悔した。『閉』のボタンを押すと、扉が音を立てて閉まった。
無意識的に、彼から距離を開いていた。壁際に寄り添うようにして、しばらくどこを見つめるべきか視線を彷徨わせていた。しばらくの間は、そんな風に無言だったが何故だかあちらから、声をかけてきた。別にそんなの要してないのに。少し不服にすらなった。自分勝手な話だが。
「あの、木崎さん、ですよね」
意識しないようにはしていたのに、そうやって他人のような呼ばれ方をするのはやはり少し傷つく。でもそれは悟られないようにして、口元に少しだけ笑顔を浮かべてから「ええ」とぎこちなく返事をした。
「何か、ほとんど挨拶らしい挨拶もしてなかったですね……お隣なのに。色々、タイミングとかちょっと逃しちゃって遅れましたけど」
何だ。他人にはそうやって結構喋るんだな。君って人は。知らない彼の側面に安堵しながらも、同時に何故かひどく悲しくもなった。
「隣に住んでる柏木です。何度か顔合わせてますけど遠かったりであんまり話せなくて」
初めて知るような顔をさせながら、「どうも」と愛想笑いと共に会釈した。それが正解なのかどうかは知らないが、そのくらいしか今の自分には出来そうにもなかった。
――柏木くん……
知ってる。知ってるんだよ。俺は。
「その、失礼ですけど木崎さんって、おいくつくらいですか?」
「今年で、三十になりますよ」
「えっ、じゃあ俺と同い年なんですか! 見えないですねぇ、全然。まだ二十代前半くらいかと思ってました」
中学を一緒に過ごしたんだから、同い年で当たり前じゃないか。と出かかった言葉を抑えて、半ば苦笑に近い笑顔を浮かべていた。そうだ。違うんだ。この世界では。――途端に、どういうわけだか「どうしよう」という懇願に近い気持ちが自分の中で芽生えつつあった。
だから会わないように避けてきたのに。
声を聞いたり、顔を見たりしたら、俺はきっとまた縋ってしまうから。残酷な運命の神に、今の精神に災禍をもたらしている神に、わけもわからぬ祈りを捧げたかった。
「あ、あの」
「はい?」
気付くとこちらから話しかけようとしていた。声に力が籠ってしまった。
(やめろ)
自分を押し止めたかったが、堪えきれずに柏木の目を見つめてしまった。柏木が不思議そうに小首を傾げて尋ね返す。
「いや、その――あの……え、っと」
「あ、ちょっとすいません」
その時、電話の着信音が鳴り響いたかと思うと、柏木は自分のスマホを取り出していた。電話の主を確認し、彼はすぐさま電話に出た。
「もしもし?――え、ああ……うん。帰り? ああ、いいけど……はいはい。分かったよ」
親し気な様子で話している事から、家族か、慣れ親しんだ友達か、或いは――急激に胸が締め付けられた。息をするのもやっとだった。
「明里はどうすんの? 今日遅いんだろ、お前。飯、作っとけばいいの?」
明里、というのは紛れもなく女性の名だろう。そのやりとりに、無性に懐かしさを覚える。ほんの何か月か前、いや或いは何年も跨いでいるのだろうか。そう、自分が元いた筈の世界では、君が俺に全部してくれた事だ。
「ついでに? いいよ。うん。トイレットペーパーと洗剤ね、はいはい」
日用品の買い物でも頼まれたのか、二人の親密さをうかがわせるには十分なやりとりだった。もしかしたら、あの部屋には彼と、もう一人の同室者がいるという事だろうか。そうこうしているうちに、エレベーターは一階に到着していた。
「……あ、じゃあ。また機会があったら、ゆっくりお話しでもしましょう」
「ええ」
その、「またの機会」っていうのが相手によっては中々実現しない事も、三十年近く生きてきて十分理解していた。慌てた様子でエレベーターを後にする彼の背中を追いながら、自分も歩き出した。自分の口元が、いじめられた子どものように、他愛なく歪んでいるのを感じながら。