#1-2 / 佐竹一郎という男
#01
園内の広さは、想像を遥かに超えていた。人の賑やかさも手伝い、乗り物の待ち時間の辛さもあってなのか、一郎の疲労感に拍車をかけた。どこへ向かっても人はじりじりとしか進まず、やっとの思いでその群れを抜けても窮屈さはあまり変わらなかった。
泉水は他愛なく喜んでいるようだったが、櫻子は相変わらず楽しんでいるのかそうでないのか、一見するとよく分からない。何気なく時刻を見れば、もう昼の十二時を回っていた。どうりで腹も減って、力も出ないわけである。
「時間も時間だし、そろそろ飯にしないか?」
「何言ってるのよ。今こそみんなご飯に出ているんだから、乗り物に回るチャンスじゃない」
一郎の提案はあっさり郁美によって却下され、それもそうかと思いつつ見渡せばやはり人がひしめき合っていて、ここまで来るともはやそんな問題ではない気がしてならない。汽車型のアトラクションまでは何とか粘ったが、次にティーカップに並ぼうとした際に一郎は休ませてくれと申し出ていた。ほとんどその場から逃れるようにして、郁美に二人を任せてしまうのであった。
おろおろと老人のように歩き、それからベンチに腰かけるその姿はさぞかし哀愁たっぷりだったに違いない。一郎はなけなしの小遣いから買ったフライドチキンを齧りながら、行列に並ぶ家族らの姿を少し離れた場所から見つめていた。見れば自分とそう変わらない年頃ではないだろうか――四十代にさしかかるかそうでないかくらいの、日に焼けた肌をした男性が、息子と思しき少年を肩に乗せている。軽々と、大した事がないような様子だ。あんな事を自分がすれば、たちまち一年分の肩こりがずっしりと襲い掛かってくるに違いない。
何気なく自分の腹に目を落とすと、中学・高校とサッカー部で鍛え上げていた筈の身体に贅肉がこびりついているのに気が付いた。日頃の運動不足と、暴飲暴食による報いだった。自業自得でしかないのだが、恨みがましくそんな自分のだらしなくなった身体と、目の前ではしゃぐ男性をつい見比べてしまう。
「それ、いくらしました?」
一瞬、自分に話しかけられているのかどうかと、一郎は考え込んだ。ゆっくりと視線を横へと流すと、一人の青年がこちらへ向かって足を進めている。一歩、また一歩――と、青年は隣のベンチに極々自然の流れで腰かけた――年齢は――、二十代後半くらい……だろうか。
何といえばいいのか独特な雰囲気を持った青年だった。半袖のカッターシャツにネクタイ、サスペンダーという装いをしていたが、良く言えば英国紳士風で、意地悪に言えば西洋かぶれといった具合だった。けれど、それも計算ずくなのだろう。着る人が着れば完全にダサくなってしまいかねないファッションも、彼が身に着けると垢抜けて見えた。一目見た瞬間に『怪しい』と思い、次に見た瞬間には『かっこいい』と思ってしまっていた。
青年が軽やかに笑いつつこちらを一瞥したので、それで改めて「自分が話しかけられていた」という事を思い出したのだった。青年の視線が、一郎が片手に持っていたほとんど齧りつくされたチキンに向けられているのを知り、一郎は慌てて口元を拭った。
「……五百円。コンビニで買えば、この半額で済むのになあ」
消費税は省いておいた。ハハハ、と間を埋めるように笑って一郎は背筋を伸ばした。青年は、こちらに合わせるように薄めの唇を僅かに持ち上げて微笑む。
「なるほど。こっちにまでガーリックのいい匂いがしまして」
それは一瞬、遠回しに警告されたのかと思い一郎は肉身のなくなった骨を少し慌てた様子で下げた。が、青年の表情にそんな気配はなく、心の底から本当にそう思ったから口に出しただけのようだった。
大人らしく利口な喋り方で、決して他者を舐めてかかったり威圧するようなものではない。――多分。只、彼の目的は読めないままなのは変わらない。
「……いやー、どこも混雑していて困りますよ。これ一本買うのに恐らく十分はかかった」
気付くとこちらからどうでもいい事を話し始め、それも内容が愚痴という始末で、それでも青年は気を悪くするでもなく一笑を浮かべて応じたのだった。
「さっきまでこの暑さにやられて食欲もなかったんです。それで何食べようかちょっと悩んでて」
とりとめのない会話を漏らす青年の、この上なく自然体な立ち振る舞いは却って不気味な程だった。細かく年齢にしてみれば、二十半ばくらい……二十五、六歳程だろうか。もう少し若くても頷けるし、逆に上だと言われても納得ができた。不思議だったのは、その年頃の青年が、何故こんな場所に一人でいるのかという点だ。もしかしたら自分と同じように、家族――或いは恋人や友人がいて、離れているだけなのかもしれない。
「連れもいないんで楽なんですけどね、合わせる必要がないですから」
彼はまるで一郎の心を読んだように、その今しがた感じた疑問を何の自意識も感じさせずにさらりと口にした。次の疑問はすぐさまやってきた。じゃあ、一人で遊びに来たとでも言うのだろうか? 遊園地に?
……いや。
今時は、さほど珍しくもない話なのだろうか。適齢期くらいの男が一人でどこへでも出歩くというのは。考え直しておいて、一郎は間を持たせる為(無意識のうちではあるが)ベンチに座り直した。
「いやあ、年寄りには向きませんな。こんな場所は。……忙しなくてどうも合わない」
自虐を込めて思わずミゾオチの辺りに溜まっていた澱のようなものを吐き出せば、青年はやはり屈託なく笑うばかりであった。嫌味なものは、一切感じさせない。それから青年はゆったりとした口調と共に、行列を差した。その列の中には、家族も待機している。
「――あれは、お子さんですか?」
青年の問いかけに、一郎は視線を持ち上げた――「あの、セーラー襟のワンピースをした髪の長い子と、オーバーオールの少年」。見るのも億劫だった行列はいつの間にやらそれなりに進んでいて、郁美と櫻子と泉水の三人は、あともう少しかというところにまで来ているようだった。
「ええ、その通りです。……何故分かったのですか?」
「いえ、大した理由なんて別にないんですけど。そのスマホカバー、あの女性が持ってるのと対になってるデザインだったので。女性との年齢的にもそうかな、って勝手に推測しただけなんです。……て、何か失礼ですね。すみません、勝手にごちゃごちゃと」
この距離でそれが確認できた事に驚きつつ、「目がいいんですね」なんて素直に答えるべきなのか迷い、やめておく。言葉にすると嘘くさくなりそうに感じられて、一郎は感嘆したような声を漏らすだけに留めておいた。
それから、横手に置いたままにしていたスマホカバーに改めて目を落とす。ちょうど二年前に購入したものだった。数少ない記憶を掘り起こす。いや、なんて事はない、子どもに人気のキャラクターをあしらったケースだった。一郎の方は、緑色をした出っ歯の恐竜で、郁美は赤色の雪男。子どもにせがまれて(主に言うのは泉水なのだが)、揃いで買ったものだ。
その時の記憶を思い起こしながら、一郎はあの時はまだ家族みんなが仲良くしていたな……と、感慨深くなった。櫻子だってもっと笑っていたような気がするし、今となっては考えられない。出来るなら、あるべき家族の姿に戻りたかった。子の誕生に素直に喜び、慈しみあっていたあの頃のように。
淡い思い出に浸りつつ、一郎はふっとため息を吐き出した。
「遊びたい盛りなんですかね。今日もこんな暑い中遊園地なんかやめて、涼しい場所に行かないかって提案したんですけど、全く受け入れてもらえなくて。只でさえこの人口密度ですからね、嫌になりますよ、ほんと」
またもや愚痴っぽくなってしまうが、青年の醸す雰囲気に乗せられたように一郎はつい口を滑らせてしまう。
「実は今日も、ここに来た時すぐに案内図の事で家内と口論になりましてね。俺なんかアナログ人間だから、昔のガイドブックを持ってきたまではいいんですけどそれが何と数年前のものでして。見れば所々改装中だという話じゃない……で、まぁ、そんなものはアテになんないでしょって」
溜めていた不安を吐き出すように話せば、青年は嫌な顔一つせずにそれも黙って聞いているようだった。全く黙ってというわけではなく、時折相槌のようなものを打った。その間、彼はとても穏やかな目をしている。
「いやぁ、まあ、俺がその辺はしっかりとしとくべきだったんですよ……でもね、俺にも言い分はあったんです、そのう……日頃から妻にもちゃんと色々とやってほしいというか、えぇと……どうなんだろう?」
「ここは広さを売りにした遊園地ですからね、一年ごとにどんどん巨大化していくんですよ。創立してから約二十年もの間、絶えず建設工事が続けられているんです」
自身の生活への不平不満に話が逸れそうになり、軌道修正を図ろうと言い淀む。青年はそれも汲んだのか朗らかに微笑みつつ話しただけだった。一郎が肩を竦めつつ、背もたれにその背を預けながら青年を見つめ返す。
「成程。どうしてそんなややこしい事をするんでしょうね、却って客足が遠のきそうだ。みんなどうしてそんなにあっさり受け入れられるんでしょうか」
それはこの遊園地だけではなく、全ての事象において言える事柄なのかもしれないけど。青年はしばし考え込むように、口元に指を添え、どこか遠い目をさせた。心ここにあらずといった表情に見えたけれど、青年はまた口を開いた。
「決まったルートさえ守っていれば、外れる事はないのです。ただ……そうですね、これはもしかすると全世界において言える話ではありますが――社会心理学でいうところの“制度的行動”。ここから外れた行動を取ったが最後、広い土地は入り組んだ迷宮そのものとなりえるのです」
青年の口から語られた言葉は、どこか道筋をなさないもののように聞こえた。適当というわけではない。彼自身が答えを見つけようと、あれこれ模索しているような口調だった。
「……しかし広すぎるのも考え物というか――でかければいいというものでもないだろうに」
対する自分の返答が、少々薄味すぎるような気がした。しかし青年は馬鹿にしたりはせずに、それも真剣に考え込んで、ややあってから膝を組み換えた。言った。
「これは飽くまで俺の考えなんですが……、まあ、仕組みはアリ地獄のようなものですよ。えぇと……、あ、ここの話に絞るんですけどね。この遊園地、色んな企業とタイアップして、たくさんブランド店が入ってきているでしょう? 少々広くして店を並べても、工事費はそう変わりませんからね――競い合って有名店同士があちこちこの遊園地で繋がれば、そりゃあ規模も大きくなりますよ」
今度は、何となく分かった。彼の言わんとする意味が。
「じゃあ、つまり……出入り口が分かりにくくなっているのも、えぇと、その……わざとという事かな」
「っていうのが、まぁ俺の仮説みたいなものです。この箱の中でいかにお金を落とさせるか――簡単にみんなが帰ってしまうようでは、何も売れませんし。それでは流石に投資した側も困りますからね」
青年の雰囲気にすっかりのめり込んでしまったかのように、一郎は感心したかのようなため息をまた漏らした。一緒に声も出ていたかもしれない。
「あ……、っと。ついついまた話しすぎたな、悪い癖が出ちゃったよ」
独り言のように漏らした後に、彼は反省するかのような表情を浮かべた。
「すみませんね。こんなつまんない話、長々としちゃって」
「いやいや、そんな発想はなかったから。俺も、へぇーとなったよ」
素直にそう述べると、青年はまた少しだけ笑った。今度は無邪気さを感じさせる笑い顔だった。それから青年は用事でも思い出したのか、機敏な動作でベンチから立ち上がり、衣服の乱れを片手で整えた。
「お嬢さんと坊ちゃんから、目を離さないようにしてくださいね。迷子にならないように」
「ん? あぁ、それは勿論――」
それから、青年は一郎に向かってどこからともなく取り出した名刺を差し出した。一郎がそれを受け取って、目をやった。そこに並んでいたのは見事に英文字だったので、面食らってしまった。
「……アーノルド=ロマノフ、です。ま、調査でちょっとここに」
アーノルドと名乗った青年は、話している限りでは自分と同じ人種にしか見えなかったのだが。日系何世……という事なのだろうか? 名刺には、『The New World 記者』とあった。……なるほど。ジャーナリストなのか。それで、すとんと腑に落ちた。頭にあった疑問が一つ消えた。そうか。仕事でここに来た、というわけか。
「それでは、職務に戻ります。すみませんね、せっかくの休日を邪魔する形になってしまって」
「あ、い、いや……」
踵を返したアーノルドは、やはりそつのない仕草で人ごみの中へと消える。人の中に溶け込むその動きは実に違和感のないもので、人目を惹く存在であるのにも関わらずすぐにどこにいるか分からなくなってしまった。
戻ってきた郁美達に、「そろそろご飯にしないか」ともう一度言った。あの、半ばあくどいとも言えるサイズのチキン一本に対して、この胃袋ではもうどうしようもない。
「コーヒーカップに乗ったらちょっと酔っちゃって……とてもじゃないけど、今は何かを食べる気分になれないわ。匂いを嗅いだだけで吐きそうよ」
「……えぇっ、そんな――じゃあ、俺一人で先にどこか入っているのはダメか? もう、腹が減って死にそうなんだよ」
ほとんど哀願に近い様子で告げ、一郎は縋る思いで郁美に近寄った。すると郁美は、距離を詰めた途端、露骨に顔をしかめた。最近はもうこんな表情には慣れっこだったけど、今は何だかすきっ腹に追い打ちをかけられた気分だ。
「ヤダ。なにあなた、ニンニクでも食べた? すっごく臭うわよ。吐きそうだから、ちょっと離れて歩いて」
驚くほど自然に吐かれた言葉で、恐らく彼女に……まあ多分、悪意はない。こちらを傷つけるつもりではない。分かっている。分かっているのだ。だが、その表情だとか、言い草だとか、恐らくは娘と息子の前でそんな風に言われた事だとか――あらゆる出来事が重なり、一郎にとっては切ない程の屈辱を覚えた。
「おかあさん、あれ、次。あれ乗りたい……」
泉水がおずおずと郁美に告げたのは、空中で周る回転式のブランコだった。郁美は当然こちらの事は構いもせず、二人の手を引きさっさと歩き出してしまった。一郎を誘導する気配もなく、どこかで勝手に待っているんだろうといった具合だった。
こちらに何の断りも入れずに、郁美達は今度は何分、いやいや何時間――にまでいくかもしれない。下手をすると。とにかく、人の群れの中に消えた。
(なるほど。いやいや、これは傑作だ!)
大声で笑い出したい、そんな気分だった。手を叩いて、ワッハッハと大袈裟なくらいに爆笑したかった。――俺は俺なりに、精一杯やっているつもりだ。妥協なんかしていない。いつでも全力だった。家族に、会社に、そして世の中に大して。真摯に、手なんか抜かずに対峙しているつもりだ! 苦しい息を噛みしめて、一郎は口と鼻を押さえながらともすれば襲い掛かってくる妙な笑いを耐えた。そんな事をしていると、何故かどんどん目頭が熱くなり、気を抜くと大粒の涙が転がり落ちそうになってくる。
そうしている間にも、三人は立ち止まる事などはなくさっさと前に進んで、いつしか人の波に流されて見えなくなってしまった。……しまった。一度も振り返る事もなく。一郎は、うん、と立ち止まり、それから、横手に見えた男子トイレに誘われるように足を進めた。外の込み具合に対比して、トイレはほとんどがらんとしていた。泣き顔を見られる事なく、これは幸いだった。
個室に入り、蓋をしたままの便座に腰かけて、顔を伏せて情けなく泣いた。いい歳の中年が、泣きじゃくった。こんなに泣いたのは親父が病気で死んだ、あの日以来かもしれない。泣き声が漏れないようにと水を流し続け、一頻り涙にくれた。頑張れ、頑張るんだ、と思い、頑張らなきゃ、と言い聞かせて、頑張るぞ、と息を吐いた。
「おかしいわね。どこに行ったのかしら」
「おとーさんは?」
「……いないわねぇ~、さっきまでついてきてたのに。そんなにお腹すいてたのかしら、一人で勝手にお昼に行っちゃったとか」
まさかね? と、笑っておいて、郁美は二人の子がきちんとついてきているか確かめた。泉水は常に引っ付いて回ってくるような子だけれど、櫻子の方は郁美の目から見てもたまに掴みどころがないから困る。少し目を離すとふっといなくなっていたり、かと思えばすぐ隣にいて驚いて声を上げた事もたまにある。本人はそんなつもりがないようなのだが。
郁美は何故か先程から館内が妙に騒がしいような気がしたが、そんな事に気を向けている余裕はなかった。やけに足早なカップルとぶつかり、その彼氏の方が「すみません」と小さく謝った。……何だろう。胸騒ぎに駆られて、郁美はバッグからスマートフォンを取り出した。一郎とペアで買った、赤色のキャラカバーがかけられた電話。履歴を探り、一郎の名を探した。
「ねえねえっ、まさかあれもアトラクション?」
「いっやー、ちげぇだろ。多分。……おい、動画撮ってネットにあげようぜ」
「つうか大丈夫かよ、警察呼ばないん?」
通り過ぎた大学生くらいのグループの会話が、妙に気にかかった。……やはり、嫌な予感がする。郁美は半ば祈る思いで「早く出て」と思いながら、電話の呼び出し音を聞いていた。一回――、二回――、三回――……
「おかーさん」
「……泉水、今ちょっと忙しいからトイレなら後にしてくれる?」
四回、五回、六回。気のせいだとばかり思っていた観衆の声が、一層賑やかしくなってきた。何だ? パレードでも始まるのだろうか? 一郎は電話に出てくれない。それから、クルーの「お客さん、ちょっとやめてください!」という声が、覆い被さるみたいに立て続けに聞こえてきた。
「おかーさん……」
「泉水、お願いだから静かにしてっ!」
自分でも驚くくらいにヒステリックな声が出た。当然、泉水もびくっとその顔を強張らせたが、それよりもその先の視線に映った――、その先の光景に、郁美はスマホを持った姿勢のまま硬直した。言葉を失った。自分の目を、耳を、信じたくなかった。
「ばっきゃろー! 俺に言わせればなぁ、なぁにが、セクハラで訴えますよ。っだ!! 大体さ、二人でどこかに行こうなんて誘ったわけじゃないんだ。ふっざけるんじゃないよ、このぉ。だから駄目なんだよ今の社会ってぇのはよぅ。セクハラってぇーのは、あれだ、乳首や下半身に触ったり、そういうのじゃあないのか、えぇ!? 俺は、別に! 下心があったわけじゃないっ!」
彼の足元に転がっているのは……ああ、なんて事だ。酒瓶のように見えた。自宅にあった筈の……館内はアルコール類が禁止の筈だが、つまりまあ持ち込んだという事だろう。まさか、そんなもの持ってきたとは思っていなかった。思うわけもなかった――いや、まあ、目の前で暴れる初老近くの酔っ払いが一人。
郁美はよく見知ったその顔を、只々、呆然と眺めるより他ないのだった。
「セクハラ、っつぅのはよぅ。オネーチャンのオッパイやシリやらを見て、あそこを勃起させるような奴の事なんだってぇんだよぉ。俺はなーんも悪くない、っつーんだ! どうして、小説を貸しただけで俺が、ずっとずっと真面目に働いてきた俺が、降格! されなくちゃいけないんだ!!」
一郎が喚き散らす度に周囲からは笑いと蔑みと、関わり合いになりたくないという様々な意味合いのこもった視線が撒き散らされた。心無い者はスマホのカメラを切り、指を差して笑うばかりで止めようともしない。悪意に満ちた笑い声が、郁美に突き刺さった。耐え難い恥辱を被ったように、郁美は自分の仲が空虚になるのを感じていた。
クルー達がやがて一目散に走ってきたかと思うと、一郎の周囲を取り囲む。
「あのオッサンおもしれー。何喚いてんだ?」
「うっわ何じゃありゃクソうけるんですけど、やっば! キチガイ?」
「……お、お客様、どうか本当にやめて下さい」
ベテランのクルーだろうか、それなりに年齢のいってそうな男性が一郎を背後から止めた。だが、慣れたクルーでもこれは相手になりそうにない。他のスタッフ達も皆、どうしていいものかと各々苦し気な表情を浮かべている。
「な~にがやめてください、だ、お前バカヤロウコノヤロウ。触るんじゃない! 昨日、マスをかくためにちんぽに触った手で気安く触りやがって。違う、女のおまんこをいじくったのか、どっちにしろ他人様に許可なしに触るなバカ野郎、お前の親は一体どんな躾をしたん、だっ!」
もはや聞いていられないような卑猥語の連発だった。一郎は余程泥酔していると見えたが、もうそんな事はどうだって良い。郁美はふらふらと人々の波を掻き分けるようにして進み、騒ぎの真ん中にまで出ると、夫――とも呼びたくないその男の前に立った。
「いい加減にしないと警察を……」
「あー、あー、呼んでみろ! そしたら訴えてやるぞ、てめぇ、徹底的に争ってやるぞこの野郎~……」
「最っ、低」
アルコールの力を借りて、無限の力を得たような気分でいたのだろう。目の前に佇む妻の顔に、一郎の上がりに上がり切ったボルテージが急速に下がっていく。一瞬にして彼の顔は、元の気弱な冴えない、四十路近い中年男のそれに戻った。威厳を失いきった、いつもの一郎でしかなかった。
そんな両親を見守る子二人であったが、片や気が気ではなかった。今しがた目の前で繰り広げられている茶番の事は、どうでもよい――泉水は、震えながら冷たい視線を背中で受け止めていた。蛇に睨まれた蛙と同じで、今自分は、逃げようにも動けなかった。
「泉水」
名前を呼ばれ、泉水は固唾を飲んだ。
「分かってる?」
「……」
うなじの辺りが凍りつくような嫌な感覚が、全身を覆った。声を出すのが難しい。実行するのは簡単だ。目の前にいる母親に泣きつけばいい。――それだけで自分はこの無限に続く苦しみから逃げられるのに。
内臓が全て取り除かれてしまったような、嫌な心地だった。
だが――、
彼女の言葉は、泉水にとって絶対だった。絶対的な支配者以外の、何者でもなかった。彼女の言葉に逆らう事は自分にとって『最悪の結果』を意味する。逃げられない事を、彼女は、姉は、櫻子は――全て理解している。
「やるしかないのよ。わたし達」
「で、でも」
「……お姉ちゃんのいう事がきけないの?」
櫻子の言葉は、合成音声のようにのっぺりとしていた。泉水は思った、もしこの世にアニメで見た『悪魔』という存在いるのならば、きっと……きっと、彼女のような見た目をしているのではないかと。悪魔なんて、空想事の中でしか知らない筈だったのに。
その後の道のりをどう帰ったのか、実はよく覚えていない。
郁美が櫻子と泉水を連れ、自分の目の前から一目散に立ち去った。その際に見た郁美の顔は、ほとんど泣き顔に近かった。それまで怒り調子でたしなめにかかっていたクルー達だったが、流石に居たたまれなくなったのか「もう、これ以上騒がないように出て行ってください」とだけ告げて大事にはしないとの事だった。
一郎が車に戻ると(鍵は自分が持っていたので、郁美に置いてきぼりにされる事はないだろうからここで待つのが一番いい)車の前で小さな影がひとり、座り込んでいた。
「泉水?」
我が子の姿を見た瞬間、己が感情を優先させてしでかしてしまった事へのとんでもなさが込み上げてくるのだった。時を戻してくれなんて都合が良すぎる願いだ、許してもらおうなどとは思わない。これからの行いで、償っていくしかない。
「櫻子と、郁……、じゃない、お母さんは?」
「あ、あの……その……」
普段から少し、おどおどとして言葉をなさない事の多い泉水だったが、今は特にそれが強く感じられた。まあ、仕方のない話だったが。
「お、お母さんと……お姉ちゃん……こ、こっちで待ってるからって……」
「え? わ、分かった」
泉水の言葉に、疑いようもなく一郎は彼の後についていく。先程、呆然自失として歩いていたせいなのか、気付きもしなかった。いつの間にか館内からは陽の気配が遠のき、夜気が忍び寄っている。もしかしたら自分のせいなのかもしれないが、客足もうんと減っている。
けれど、泉水の後を追い、一郎は人気のまばらな館内へと戻った。確か閉館はまだの筈だが、夜のパレードに備えて皆どこかで待機しているのだろうか。
「泉水、お父さんちょっとまだ酔ってるんだ。もう少しゆっくり歩いてくれ」
子どもの足ってこんなに早かったのか。いや、違う、自分の機能がアルコールによって低下しているだけなのか。まだ酔いの抜け落ちないふらつく足元で遊園地の中を彷徨い、時々誰かにぶつかって、それから平謝りに一郎は泉水を追いかける。……完全な悪酔いだ。首の後ろ辺りに、鉛でも埋められたような重みを感じる。身体はうっすら火照っているのにも関わらず、指先や背筋の所々は寒かった。
小さな背中を見失わないようについていくだけでもやっとだ、足をもつれさせ、襲い掛かってくる強烈な吐き気と格闘しながら足を進めた。昔から酒には強く、ほとんど酔いを見せないのが一郎にとってひそやかな自慢であったが、近頃はもうめっきり駄目だ。
水を飲んで、この酔いを醒ましたい。
「……おーい、泉水ぃ。どこに行くんだぁ」
もはや呂律が周っていない。傍目から見れば、本当に通報されても仕方のない事だろう。クルー達の目を気にしつつ、早いとこ郁美と櫻子を見つけて帰還せねばと思う。……どういう事だろう。歩けば歩くほど視界がぐるりと回転する――これは……これは、只の酔いと違う……
「櫻子? 泉水?」
まずい。吐き気が、吐き気がする。眩暈もしてきた。これはいけない。気付けば人影もチラチラと消え始め、次第に自分以外の気配が見当たらなくなった。というか泉水はどこだ? 泉水は? 泉水は泉水は泉水は?……どこか背後から、櫻子と泉水の笑い声を聞いたような気がした。振り返った。誰もいなかった。
同じ場所をぐるぐるとし、歩けども歩けども辿り着けない。無限に引き延ばされた通路を延々と歩かされている感覚。メリーゴーラウンドの馬達が、真っ黒な悪魔達のような姿に変わった。館内を流れるメロディーが地獄から響くかのような、不気味なものに変わった。風船を持ったピエロが心配そうに近づいてくる。風船だと思ったものは、血の付いた包丁だった。無論、わけのわからない事をわけびながら突き飛ばした。それらは全てが全て、幻覚でしかなかった。
一郎が走り去った後では、ピエロの格好をしたバイトのお兄さんが「何だあのオッサン」とひとりごちた。一方で、夢中で走り抜けた一郎だったが、彼はもはや現実の世界にいる気分ではなかった。
(……さっきも来なかったか、この場所)
先程の若者――アーノルドの言葉が不意に頭をよぎった。身震いがした、心の底から。早く、家族を探さなくては。もう一度、家族の名を次々に呼んだが狂ったおとぎの世界の前には何もかもが無意味な事のようだった。
(馬鹿な。あんなのは、作り話だ)
(彼も言ったじゃないか、自分が立てた仮説なんだと)
(だから、出鱈目だ! この世界も!)
逃げなくては。この世界から。ここへ来る前、散々動画サイトで繰り返し見せられたテーマパークのコマーシャルを思い出した。楽し気なリズムに、愉快そうに踊る子ども達の姿。幸せそうなカップル。笑顔のプリンセス。傅いて敬う兵士達。『ようこそ、夢の国! 二度と覚めない夢の中へ!』。
夢の世界でも事故は起こるの。
ルールを破る者には、然るべき罰を与えなくちゃ。
トランプの兵士達を従えた、ハートの女王が高らかに笑った。後ずさりすると、背後にいたのは王子様と濃厚なキスをしている白雪姫のようだった。乱交パーティーの真っ最中なようであった、当然の事ながらこんなところにはいたくない。
冗談じゃない。何が夢だ、こんなものは悪夢だ。
立て続けに、脳を揺さぶられるような衝撃。続けざま痛みがあちこちに走り、気付くと自分の身体が地を這っていた。誰かに殴られたりしたのではなく、転んだのだと知った。思うように、指の先一本までも動かせない。
(何故だ。何故、俺は……)
櫻子。泉水。郁美。
こんなところにいちゃいけない。早く帰ろう。早く――、
「うまくやったのね」
「……」
櫻子の無機質な声を聞きながら、泉水は震える事しかできなかった。
「とりあえず、色々入れたの。お母さんの眠剤とか、カフェインとか、興奮剤とか、精神薬とか、何か色々」
「お、お薬たくさん入れたら、死ぬんじゃないの?」
「それならそれでいいじゃない。薬のオーバードースで死んじゃう大人なんてあちこちにいるもの。勝手に足でも滑らせて死んでくれたら、いちばんなんだけど」
「…………」
そう話す櫻子の横顔は、透明で、無表情だ。綺麗な顔立ちをしていて、大人びていて、自分と同じ家族だとは思えない。――だからこそ、一層恐ろしく、理解できないもののように思えた。家族じゃなかったら、彼女は一体何なんだろう。
夜気が全身に纏わりつく。しかし、指先一本として動かせない。それどころか、思考は閉ざされる。視界が狭まっていく。まとわりつくカラスの声が鬱陶しく、追いやりたい衝動に駆られたが、どうやらそれも叶わないようだった。
自分の頭から噴き出た血や脳漿をはっきりと見た。目を閉じた。永遠に覚める事のない眠りが、一郎を捉えた。夢は見ず、深い暗闇だけが彼を支配した。
(……もうたくさんだ)
――夢なら覚めてくれ……
夜はどこまでも暗く、肌寒い。