#1-1 / 佐竹一郎という男
#01
――さっきから、娘は俺を無視している
少なくとも、佐竹一郎の目にはそう思えてならなかった。もうすぐ四十歳を目前にして、この男、佐竹一郎は十年以上勤めてきた会社で『降格』という処罰を受けたばかりだった(降格! これまで真面目に勤務してきた俺が!)。
何をしたかと言えば、誤解からどうにも女性社員にセクハラをしたと勘違いされてしまったのが主な原因だった。とんでもない。自分は只、彼女に面白かった小説を奨めただけなのに――とまあ、今はそんな事はどうでもいい。いや、よくはないが、あまり関係はない。
ちなみにこの話は、妻・郁美には伏せたままだった。……話せるわけもなかった。それは、彼女を傷つけたくないという気持ちからではなかった。彼女の性格の問題だ。短気でヒステリックな郁美には、話が通じない。右か左かで答えてくれ、と言っているのに上と答えるような人種なのだ。ちなみに、この事が分かったのは結婚してから比較的早い時期であった。分かったところで抗いようもないのだが。
「櫻子、危ないから窓閉めなさい。……それにクーラーついてるんだから」
郁美の声に、娘の櫻子は返事する代わりか僅かに視線を向けた。それから、櫻子ではなくその隣にいた弟の泉水がうっそりと席を立つ。
どこか緩慢ともいえる動作で、彼はパワーウィンドウをそっと閉めた。同じ男というのもあるのかもしれないが、一郎目線で泉水は大人しくてとてもいい子だと思う。ただ、少し姉に気を遣いすぎていて主張が薄いのが、もうすぐ小学校に上がる男子としてはやや不安も残る。周りの腕白盛りの坊主達に置いてけぼりを食らうならまだいいが、下手を取ると自分よりも小さな女の子に泣かされてしまったりして。
ああ……そりゃあまた、まるで妻に頭の上がらない自分とおんなじだ。佐竹家の男子はみなこうなのだろうか? それとも世の弟という存在が全てこうなのかもしれないし。自分はあまりにも世界を知らなすぎるから良くない。
この年齢になっても、知らない事とできない事が多すぎて、無知な自分が嫌になる。何とも言えないこの抑圧が、八月の暑さをさらに地獄へと変えていく。
「そういえば櫻子、担任の先生だけど。あれからどう?」
「……ちょっとましになった」
「まだ何かあるようだったら私に言いなさいね、お母さんすぐに言いに行くから」
助手席で郁美が背後を振り返りながら、しきりに櫻子に向かって話しかけている。その隣、一郎は黙々と運転を続けるばかりだ。特に会話には混ざらない。
「それにしたって、酷い話だわ。櫻子は元々地毛で茶色いだけなのに、小学一年生の娘にブリーチなんかするわけないでしょう。ねえ?」
それは一郎に向かってというよりは独り言のような感じで、郁美は呟いてからうんざりしたように窓の外を見つめた。流れる景色を見やりつつ、郁美はもう一度大きなため息を吐いた。
父親として、勿論、娘が理不尽な扱いを受けた事に対して憤りがないわけではない。ただ、そこまで感情に身を任せて焚きつける程の事でもないのではないか、と、冷めた目で捉える自分もいる。何事かと言えば、櫻子の髪色が少し明るいのではないか? と、担任の女教師に指摘、というよりは、質問された事があったのだ。
確かに、櫻子は一見すると白人のように色素が薄い。肌の色も透き通るように白かったし、髪の色や瞳の色も日本人のそれと比べると明るく見えた。自分ではなく母親に似た彼女は、齢六つにして周りのどんな子よりも大人びていると思う。――勿論、これは一郎のむすめびいきに基づいた視点かもあるのかもしれないけど。
そりゃ、もちろん、『たかが』とは思わない。けれども、まだ若い――聞けば二十代前半のまだ新人も同然の女性教師がほんの少しだけ、怒鳴るでもなく説教するでもなく、「櫻子ちゃん、ちょっと尋ねてもいい?」というような調子で聞いただけの事をまるで鬼の首でも取ったかのように騒ぐのは……と立ち止まる気持ちはある。
毎晩毎晩、無限の被害者意識を掲げて怒鳴り散らす郁美の姿に呆れる事もあった。勿論そんんな風に思っているのをチラっとでも口に出せばどんな騒ぎになるのか、想像するのも日頃の疲れを増幅させる。ちなみに当の櫻子本人はというと、泣くでもなく怒るでもなく、黙って成り行きを見つめるばかりだったけれど。
「遊園地、まだ?」
声を上げたのはそれまで、まるでそうしろと命じられたかのように俯いていた息子の泉水だった。
「あとどのくらいかしらね。……高速はもうそろそろ抜けるから、三十分もかからないくらい?」
「……つまりどれだけ?」
「――ドラえもんのアニメくらいの長さよ」
腕時計を見つめつつ郁美が答えると、泉水はそれで納得したのかそれ以上は何も言わなかった。……先程から、娘もそうだが、妻も自分と会話を避けているような気がしてならなかった。
久しぶりの三連休。家族水入らずの旅行。一日目は寺院や城を巡りたいと提案したのだが、郁美と子ども二人には「興味がないから」と早々に却下されてしまった。……しょうがない。意見をしなかったらしなかったで「もう少し真剣に考えたら?」とトゲを刺され、拒否されるのが分かりながらも発言するしかない。これは父親だからというわけではなく、社会に出ている大人はきっとみんなそうなのだ。
三連休二日目の今日、遊園地だなんてわざわざ疲れに行くようなものではないかと思う。
案の定、園内は数えるのもうんざりするほどの人という人で溢れ返っている。まず、駐車場に入るところから、早くも体力を消耗した。ガソリンを気にして冷房の温度を高めに設定していたら、郁美が横から手を伸ばしそれを全開にした。
「効きの悪い冷房ね」
「ガスが切れかかってるんだよ、きっと」
てめぇの言葉なんか聞いちゃいないとばかりに、郁美は一郎の言葉をまるっきり無視して操作を続けた。
何とか車を停めるのに成功し、灼熱の箱と化した車内から出ると少しだけ熱気から解放された。が、すし詰め状態の人の群れにすぐさま直面し、やはり辟易したようため息を吐くより致し方なかった。
「乗りたいものはちゃんと決めてきたか?」
アトラクションの待ち時間等がかかれたタイムボードを眺めていると、泉水がおずおずと覗き込んできた。何か言いたげな眼差しをしており、一郎が何か聞き返そうとした。
「わたし、別に何でもいい」
即座に、櫻子が珍しく返事をした。すると、何故か泉水は彼女に気を遣うように慌てて顔を逸らしてしまった。昔から泉水はそんな子で、櫻子の顔色だけは妙に伺う。彼女が嫌だと言えば同じようにやらないし、逆に彼女がやる事には黙ってついていく。そんな二人を見るたびに不思議な気持ちにさせられた。
「……お父さんなあ、今日はガイドブックを持ってきたから。便利だしすぐに分かるぞ」
「――それ、いつの持ってきてるのよ。十年前のやつじゃない」
呆れるように言った郁美の顔には、力がなかった。先程の渋滞に疲弊しているのもあるのだろう。口論なんぞしている暇もないが、郁美は苛立ちもあったのか強めの口調で更に捲し立てた。
「だからあれだけ昨日、新しいのホームページからプリントしておいてねって言ったのに」
「コピーしようとしたらインクが切れてたって言っただろ、それを言うなら俺だって前からインク買っておいてくれって……」
「一部改装中、修理中、増築中のスペースがあるから大分地形は変わるって私何度も言ってた筈なのに!」
こちらの言い分などは耳に入れずにヒステリックに怒鳴る彼女を前に、この女には周りを見るっていう能力がないのだろうか? と、不快感を覚えた。過ぎゆく人達の胡乱な眼差しが突き刺さるようだ。事態を終わらせるには唯々諾々となるより他ないが、何分先の疲れもあってなのか自分も態度が出ていたらしい。
郁美はそれを見て益々何事か喚いたようだった。
「お客さん、お困りでしたらこちらの案内図が参考になりますよ」
見兼ねたスタッフがやってきたかと思うと、苦笑を浮かべてマップボードを示した。彼の今思っているのであろう事が手に取るように伝わってきてしまい、気恥ずかしくなった。郁美もすぐに静かになり、笑顔で応対していた。郁美は気の強い女だが、決して空気の読めない女ではない。そういうところは弁える。