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#2-1 / くやしいほど切ないの

 陽に焼けて所々白みがかった階段を降り、年季の入った壁を一瞥する。ドアを開けてリビングへと入ると、茶の間のテレビからは朝のニュースが奏でるメロディーが流れてきた。母は馬鹿げた芸能情報やエンターテイメントの類いがとにかく大嫌いで、毎朝流れてくるのは決まってこの真面目な報道番組だけだ。


 小学生の時は、周りの話についていくために『めざましテレビ』が見たくてしょうがなかったのだが朝から母の機嫌を損ねるわけにはいかず無言でそれを受け入れていた。母はキッチンに立ち、フライパンを洗っているようだった。テーブルにはいつものように何の味付けもされていないシンプルな目玉焼きと、それから鮭の切り身と、伏せた状態のご飯茶碗が置かれていた。

 

「泉水、いるんならちゃんと挨拶しなさい」

 

 食器が触れ合う音を掻い潜るようにしながら、母の声がこちらの耳に届く。朝食に目を奪われていて、すっかり夢中になっていた。
 テーブルでは既に姉が着席し、コーヒーか或いは紅茶か、取っ手の点いたカップを持ち静かに飲んでいるのが分かった。こんな時、泉水は決まって口答えする事もなく只々黙って席に座る。母の気持ちは汲んでいるつもりだ。……分かっている。誰が悪いわけでもない。みんな色々あるのだ。そう、分かっている。毎朝思う事だったのだが、食欲はなく、食卓というか家全体を流れる湿気だけで腹がいっぱいになりそうだった。

 

「お母さん、わたし今日帰るの遅いから」

 

 沈黙を掻い潜るように、姉の声が響いた。

 

「櫻子、もう行くの?」
「うん。私のクラスの決まりで、今月から朝から掃除があるみたいで。――ごちそうさま」

 

 姉の櫻子は、泉水よりも三十分程早く起きて行動する。言われなくとも櫻子は食器を手早くまとめると、卒のない仕草でそれをキッチンへと運んだ。スクールバッグを片手に、櫻子はリビングを後にした。こちらには見向きもしなかった。
 

 容姿端麗、成績優秀、どこからどう見ても完璧な優等生。いい意味で姉を形容する言葉はいくつだって浮かぶ。櫻子は、弟の目から見ても美しくて聡明な女性に映った。だけど同年代の少女達とは、明確な温度差があった。もっと家族と満足なコミュニケーションが取れていれば、自慢の姉として彼女を見せびらかしていたかもしれない。

 入れ替わるよう席に着くと、母が特に何も言わずに椀に味噌汁とご飯をよそってくれた。何か言葉を求めているわけでもないので、同じく黙ったままそれを受ける。櫻子の時とは違い、母が泉水に積極的に質問する事は普段からあまりない。別にそれでも良かった。悪意があるわけじゃないのだろう。

 食欲が沸いてくるでもなく、作業のように食事を終えると泉水も同じくバッグを持って立ち上がった。

 

「行ってきます」

 

 母の返答があったかどうかは、あまり重要ですらなかった。母の方はあまり見ないようにして、泉水はリビングの戸を閉めた――、

 

「おいおい、泉水。お前がそんな態度でどうする? そんなんだからいつまでたってもお前は先に進めないんだ。このままでいいのかい?」
「……そんなの分かってるよ、シーザー」

 

 たしなめるような声の主は、自分よりもうんと低い背丈のクマのぬいぐるみだ。シーザーは幼い頃からずっと傍にいる。彼は二足歩行で歩き、人間と同じようにものを話し、それから泉水以外の人間には見えない。見えない? 違う、見えないんじゃない。『視覚として認識できない』。これだ、この方がしっくりくる。
 

 シーザーはいつから自分の傍にいたのだろうか。思い返してみると、シーザーとの記憶はあの日の遊園地で父を……した辺りでぴったりと止まる。それ以来の付き合いという事なんだろう。気付くと彼は自分の隣に寄り添うように、呼吸を合わせるように、いつの間にか存在していたのだ。

 

 スニーカーの紐靴を結び、玄関を出、マンションの狭い廊下を歩く。

 

「けどそれが出来ないから今の俺がいるんじゃないか? 俺が君とこうやってお話しできるのは、俺が甲斐性なしだからでもあるんだ」
「まあ、それを言われたら俺ちゃんだってぐうの音も出ないってなもんよ。感謝してるよ、相棒。俺ちゃんを生んでくれてありがとうよ」
「分かればいいよ。……あ、そうだ、ねえシーザー。それよりも俺、最近よく思う事があるんだけどね」
「何だい。唐突に?」
「……、母さんさ、時々だけど……一人で夜、リビングで泣いてるんだ。これまでずっと父さんの事を思い出して泣いているのかと考えていたけど、もしかしたら違うんじゃないか、って……」
「違う? 何で? それは一体どういう意味だい」
「うん――。もしかしたらだけど、俺の事がイヤで泣いてるんじゃないかって……ずっと思ってるんだ。本当は俺の事が邪魔で邪魔でしょうがないのに、そんな事言えるわけもないから苦しんでるんじゃないのかなぁって……あの涙の意味は、ひょっとしてそういう事なんじゃないのかなって……」
「まさか! 何だってまたそんな考えを拾ってきたんだい、相棒? その心を聞かせておくれよ。何かに影響されたんだとしたら俺はそれを全否定するよ」
「ううん、俺の勝手な妄想だから別に決定打とかはないんだけど……何となくだよ。何となく、ね」

 

 そうやって会話しながらエレベーターの前に来ると、背広姿の男性と目が合った。ええとこの人は確か――、情報を整理する。隣人……彼は隣の部屋の住人だ、最近越してきたばかりの新婚だった筈。名前は、そう、『イトウ』さんといった。奥さんは駅前のパン屋で働いているんじゃなかったかな? あれ、どうだったかな、駅前じゃなくてもっと手前側だったか、いやもしかしたらパン屋って情報そのものが違っているのかも。思い出せない。

 

「あ、おはようございます」
「!」

 

 思いがけず会釈され、やんわりと微笑まれ、泉水は大いに戸惑い慌てて目を逸らした。挨拶? 俺は今挨拶されたのか? そうか、そうだよな。だったら普通に返せばいいだけじゃないか。別に何か聞かれたわけじゃないし俺もやましい事とかそんなの全然ないんだから別に別に別に、――……

 

「お、おはよう、ございま……す……」

 

 スクールバッグの紐を両手で握り締めながら、泉水が精一杯答えると、向こうもすぐさま前に向き直った。特に訝る様子はなかったが、内心では(さっきからこの子、一体誰と話してるんだ?)と問いかけたい気持ちでいっぱいではあった。
 

 小首を傾げるのは心の中だけにしておき、彼は気に留めずにエレベーターに乗り込んだ。

 

「? 乗らないんですか?」
「……、い、いい、です……」

 

 そう言ったきり、泉水はそそくさと背を向けてしまった。はあ、そうですか……と相槌の声の後にエレベーターの扉が閉まる音が聞こえてきた。――行った。行ってくれたか。

 

「泉水。先に行ったみたいだぞ、隣人」
「う、うん……そうみたいだね」

 

 シーザーの声に、泉水が恐る恐るといった具合に振り返る。

 

「どうする? 次乗るか?」
「――、駄目だ、乗れない……」
「何でだい?」
「だって……いるんだよ、あいつらが」

 

 恐々とした様子のまま、泉水は言葉を震わせながら言った。幼い頃から――、いや。明確に言って、あの日。姉と、真夏の遊園地で、酔いつぶれた父を置き去りにしたあの日からだ。自分の周りには得体のしれない亡霊達がうろついていた。違う、亡霊かどうかは知らないのだ。しかしどう形容すべきなのか分からないし、こう呼ぶのが一番しっくりくる気がした。

 

「ええ? そんなものどこにいるんだい? なぁ泉水、俺ちゃんのガラスでできた目ん玉には映らないようなんだが」
「と、扉の前に」

 

 どこからともなく、オルゴールの音が聞こえてくる。それは――あの忌まわしい記憶の残る遊園地で流れていたものと同じだった。首が折れ、頭の割れた父の遺体を見た事をあっという間に思い出した。やめてくれ! 思わず耳を塞いで、壁に背を預ける。泉水はその場に蹲ると、逃れるようにして後ずさったがそれ以上は物理的に不可能だと知った。背中がのけぞる。嫌な汗が出る。途端に冷気に包まれる。ぞっとするような感覚……いつの間にかエレベーターに立っていたのは、見知らぬ少女だった。
 

 髪の長い少女は半身だけゆっくりと振り返ると、確かにこちらを見ている。何故か彼女は口元を多い隠すよう、片手を当てている。

 

「……やめてくれよ、俺は――俺はただ――」

 

 許しを乞うようにして、喘ぎ喘ぎに泉水が言った。呼吸の合間を拭うような声が、自我のない少女に届いたかどうかは知らない。只……祈るようにして泉水は目を閉じ、目の前の恐怖を必死にかき消そうとした。

 

(何もいない、何もいない、何もいない、何もいない、何もいない、何もいない、何もいない……!)

 

 あいつらに何が出来るんだ。所詮は実体のない存在なんだ。所詮は――がちがちと歯の音が合わずに震え出した。気付くと謝っていた。エレベーターの止まる音が鳴り響く。泉水にとっては地獄へ案内するための音色に聞こえていた。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
「――泉水くん、どうしたの?」

 

 はっ、と顔を上げると同じ階の見慣れた主婦達がそこにいた。二人ともよく見知った顔だ、父が死ぬ前からずっと付き合いのある人達だった。ゴミ捨てに行く途中ででも出会ったのだろう、二人は驚いた顔でこちらを見つめている。

 

「顔が真っ青よ、具合でも悪いの……?」

 

 せっかく心配してくれているというのにも関わらず、泉水はその場から立ち上がると「すいません」とろくな挨拶もせずに駆け出していた。エレベーターは使わずに、階段で下まで行く事にした。……はじめっからそうすりゃあこんな思いなんかしなかったのに!

 

「……変わった子よねえ、泉水君」
「ええ。お姉ちゃんと揃って、成績はいいみたいなんだけどね」
「お姉さんの方はとてもしっかりしていていい子よねぇ~、櫻子ちゃん。明るくて美人さんだし――」
「まあ、佐竹さんとこは奥さんも綺麗だものねえ。早いうちから結婚したみたいだけどそれが良かったのかしら?」
「櫻子ちゃん、うちの娘の一つ上の学年なんだけど学校が違うのに有名人扱いよ。女優かモデルさんみたいだってみんなに言われてるんだとか。男の子達なんてみーんな夢中だっていう話じゃない、生徒どころか男性教師まで鼻の下伸ばしてるなんていうんだからサ」

 

 おほほほ、やだぁ、何それぇ。おほほ……彼女達の声は、夢中で駆け抜けてきた泉水の耳には届いていなかったけれど、ともかくまあ自分がこうやって噂されているのは何となく知っていた。
 階段を駆け抜け、ゼイゼイと肩で息を吐く泉水の傍にはシーザーがトコトコと愛らしくその短い手足を動かして二足歩行でついてくるのであった。

 

「オイオイ泉水、もうこんな時間だぜ。変な化け物なんかにかまけてるから」
「……ほ・本当だ、急がなきゃ。でもシーザー、俺は別にかまけてなんかいないよ。あいつらが場所を選ばずにやってくるのが悪いんだ……」

 

――そうだ。学校に行かなきゃ。行きたくはないけど、自分に選択肢などない事は知っていたから、行くよりほかないのだ。最低限でも高校くらいは出ておかなきゃ、もっともっと選択できる事が少なくなってしまう。これ以上の地獄にだけは住みたくないし、それに高校を卒業して、自分も家を出たいんだ。だってそうすれば何か変わるかもしれないから。

 コンビニの前を通過すると、足元に何かが飛んできた。は、と泉水が足元を見やると、空になったビールの缶が転がっていた。どうしてこんなものが、と続けざまに顔を上げると『いかにも』な雰囲気を纏った、不良っぽい集団がたむろしていた。あんまりジロジロと見ると文句をつけられそうなので、サッとみる程度に留めておき、泉水はそそくさと目を逸らしがちにさせる。

 

 年齢自体は、全体的に自分とあまり変わらなさそうに見えた。
 黒いフィルムの張られたガラスが目を惹く白いワゴン。その周囲を囲むように、単車が数台と、まだあどけなさの残る少年少女達が腰を下ろしている。数にしてみれば十人くらいはいるだろうか。派手なスカジャンを羽織った者もいれば、派手に着崩し改造したんであろう制服姿の者、ヤクザ風に胸元の開いたシャツとスーツを着こなした者と、様々な見目をしていた。

 

 髪型もバリエーションに富んでいて、明るい色のホストっぽいチャラっとした感じに、何本もそり込みの入った坊主、金髪のツーブロック……等々と、まあ明らかに学校には通えないような具合だ。

 

「ねー、またいるわよあの子達。怖いわねえ~」
「普通は学校に行く時間なのに、何なのかしら? いっつもああやって夜から朝にかけてたむろしてるのよねえ」
「今日もいるようだったらちょっと警察に電話するわ」

 

 ゴミ捨て中の主婦たちの会話を聞きながら、泉水は「ふぅん」と内心で納得しておいた。確かに、最近夜

になると周辺がとても騒がしい。初めは近くの進学塾の学生達かと思ったが、近頃の騒ぎ方が尋常ではないので(爆竹を鳴らしたり、奇声を上げたり、何か割ったり投げたり……)、まあその手の奴らだとは思いつつも……。

 

「シーザー、人間ああなったらオシマイだね」
「本当にな。泉水はあんな風にだけはなるんじゃないぞ、高校ぐらいはしっかり出ておけ。な?」
「勿論だよ。今のうち頑張らないと、将来まともな仕事がないからね。……こう言うと差別発言なんだけど、女性はいい相手に会えたらある程度は安泰するんだから俺達よりは楽だよね」
「まあな。けど、女だって色々とハンデがいっぱいあるんだ。そのいい相手っていうのに巡り合えない場合、苦しむのは男よりもずっとずっと女の方が上なんだぞ。どちらも大変なのさ」
「……そうだね。それもそうだ、生きていくのに楽な方なんてないんだね」

 

 駅までの道のり、泉水はイヤホンを耳にセットし、いつも通りに歩いた。最近、贔屓にしているバンドの曲を、ストアで一気に沢山買ってしまった。スマホの容量はあっという間にいっぱいになったけれど、心は不思議な充実感で満たされていた。
 

 高校に入った途端、洋楽に目覚めて動画サイトで片っ端から色んなプロモを見まくるのが日課だった。それで、気に入った曲だけを厳選して購入する。

 

「泉水、次は何にハマってるんだい? 俺ちゃんにも聞かせてくれよ」
「グリーンデイだよ。……えぇと、今好きなのは『バスケットケース』っていうヤツかな」
「すっかり海外の曲に染まったんだな。ところでお前は、どういう歌詞なのかちゃんと意味分かって聞いてるのか?」
「気になったら調べてるよ。バスケットケースっていうのは、『無力な奴』みたいな意味だったと思うよ。歌詞も確かそんな感じで、自分の馬鹿さを反省するような内容だった気がするなァ」
「へェエー、意外だ。まさかお前がちゃんとそういうの勉強してるとは――」

 

 道行く人が次々泉水の方を振り返って胡乱な視線を向けたが、耳元から垂れ下がるイヤホンコードを見て、何となくには――いや、どうなんだろう、まあ優しい人は『電話で誰かと会話でもしてるのかな?』と解釈してくれる。

 

「……最近アニメとか見なくなったなあ。そういえば……漫画も見なくなったしゲームだって全然やらなくなったから……って、いうと何か自慢っぽく聞こえるよね。俺はオタクじゃないぜ、そういの全く見ないから全然知らないぜみたいな情弱アピールっていうか――あっ、そういうのじゃないんだけどね。俺が言いたいのは」
「そうだったかな。最後にアニメを見たのはいつだったか覚えてるか?」
「えぇと、高校受験の時に勉強の合間にネットで――って、そんなに極端に間があるわけじゃないか。でも、説教するつもりはないけど最近のアニメって視聴者の事を考えていなさすぎるんだよ。売れるコンテンツの事ばかり考えているし、容姿のいい若手声優で話題を集めようという魂胆がミエミエすぎていけ好かない。そもそも声優っていうのは、ルックスや若さを売りにする職業じゃあないんだし。十年、いや十五年は修行して、それから出てくるべきなんだよね――単純に可愛い声やかっこいい声だけならそんなのアイドルや俳優に任せればいい話であり……」
「成程な、しかし俺ちゃんはアイドルや俳優に、声優を、それも大事な主演を任せるのもどうなのかと思う派だ」
「まぁね。一理あるよ、それも。確かにその通りだ。俺の言いたい『話題集め』の部分にもそれは含まれてく――」
「おい、あんた」

 

 割って入ったその声に覚えはなく、泉水は大袈裟なくらいにびくついて顔を上げた。――誰だ。誰なんだ。俺、何かしたのか。やらかしちゃったのか?

 

「な、な、な・ん、なんッ、なんですか……」
「桐峯の奴だよな、その制服って。なあ、学年は?」

 

 自分よりもうんと背も高くガタイもあるそいつに、覚えなんぞあるわけがなかった。心臓の鼓動が急速にぐっと早まった。ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ、と嫌な汗が全身に沸いた。得体の知れないものへの恐怖心に、喉がひくつく。
 自分とは違う学生服は、確か一駅分程隣の高校だ。学ランの下にパーカーを着こなし、前をはだけさせ、立派な胸板と体格の良さを誇示するかのような堂々とした立ち方。短めに切られた髪型。

 

(うわ、どうしようやっばい。超苦手なタイプだコレ。いかにも『俺、外に出てる方が大好きです。運動大好きです。趣味は格闘技ジムで己を鍛える事かな?』って感じの体育会系。無理。超無理。俺とは正反対に決まって――)

 

 黒髪で目つきの鋭いその男子生徒は、こちらを睨みながら距離を詰めてくる。名前? 知るわけもない。名札もついていないし、名前も確認ならずだった。というか、自分よりうんとでかい。こちらが怯えているのにも関わらずにずんずんと一歩、また一歩と近づいてくる。いや。いやいやいや。怖い……怖い、ひたすら怖い!

 

「すまんな。ちょっと人を探してるんだ、あんたと同じ学校の。……女子生徒なんだけどさ、真島明歩っていう――」
「あ、あ、あ、あっち、あっち、あっち」
「……え?」
「だからあっち! あっちに!」
「な、何が……?」

 

 もう四の五の言っていられるか。泉水は出鱈目な方向を指差していた。意図的にやったというか無意識な防衛反応が働いてそうしていた。
 

 男が不可思議そうな顔つきで指を差した方を見ている隙に、泉水は全速力でその場から駆け出していた。一目散だった。――逃げるしかない! 逃げるしかない!! あんな腕力馬鹿っぽいのに殴られでもしたら俺の骨はバッキバキに砕けてしまう! だって脇役だから、俺は人生のモブキャラだから!

 

「って、おい! 待てよ、おい!?」

(待つわけがないだろう、立ち止まったら金を搾り取られるに違いない!)

 

 男の呼び声がしたが、泉水は振り返る事なくひたすら走り抜けていた。本気のフォームだ。意外と足は速く、小学校、中学校、それから最近はめっきり幽霊部員になってしまったけれど高校の部活で馴らした剣道部時代の鍛錬が活きているらしい。

 

「ちょ、オイオイオイ! 何だよ急に、質問の途中だろうがッ!?」

 

 諦めていないのか男も追いかけてきたらしい。
 ばっかやろう、捕まって堪るかっていうんだ。お前らの思惑通りにはいかないぞ。絶対に絶対に嫌だ。
 泉は駅に飛び込み、流れるような仕草でICカードを片手でサッ、と抜きだすと改札口にすぐさま通して見せた。あっという間に人の波に紛れ込み、流石にこれは撒けたと思った。通勤・通学ラッシュで賑わう人の群れに上手く紛れこみ、後ろを気にしながら地下鉄に乗り込んだ。――あぶない、発車直前だった! これに乗り遅れたら、もしかしたら追いつかれていたかもしれない……。

 

『ドア、シマリマース』

 あ、この人ちょっと滑舌悪い。いつもの人だ。この人、『ドア』って言ってるつもりなんだろうけど『ダァ』って聞こえるんだよなぁ……息はゼエゼエと上がり切っているのに頭の中はどうでもいい事で多弁だ。ドアの閉まる音を聞きながら、泉水は肩で荒く呼吸した。

 

「――あ、ずっと歯を食いしばっていた……フゥ~」

 

 呼吸が整うのを待ちつつ、泉水は俯けていた顔を上げた。

「落ち着け、落ち着け、俺……もう大丈夫。もう追っかけてこない。平気平気、平気、もう大丈夫な筈だぞ……」

 

 ブツブツと独り言を零しながら外を覗くと、いつも通りの朝のホームがそこには広がっているだけだ。変わらない。いつもと。

 

「泉水、とんだ災難だったな」
「本当だよシーザー、俺にはあんな不真面目な知り合いはいないし……というか、テンパってて忘れそうだったけど――あいつ『マジマアキホ』、って言ってたよな?」
「何だ。知り合いなのか、お前の?」
「いや。真島さん……って、クラスは違うし全然親しくもないけど、確か野球部のマネージャーじゃなかったっけ……うん、そうだそうだ」
「運動部のマネージャーなんてろくなビッチしかいねえぜ! 男漁りが目的の売女ばっかだろ、どうせ」
「いや、真島さんは純粋に野球が好きっていういい子だった……ような気がするよ。俺も深く話したわけじゃないし真相は分かんないけどさ。一回さ、俺がまだ剣道部に真面目に行ってた頃に体育館で親切にしてもらったんだ。野球部の男子ってみんな周囲を結構見下してる奴が多い中で、真島さんはとても丁寧な人だった――かな。そりゃーまあ、表面上だけかもしんないけど……」
「成程な。……あっ、お前、まさかたったそれだけで好意に発展したなんていう事はないだろうな」

「ないない。流石に俺もそこまで勘違いはしないよ」

 

 真島のような真面目な優等生がどうしてあんな不良みたいなのと知り合いなんだろうか? しかも学校は別々のようだし――ん、ひょっとしたらカップルなのか。……いや、有り得る。おかしな話じゃない。真面目な人間が悪い人間に惹かれるなんて、さして珍しい話でもないだろう。

 同じ制服の生徒らが降りていくのに連なるよう、泉水も地下鉄を降りた。
 駅から学校はすぐそこだ。歩いて五分とかからない。信号に引っかからなければ、多分もっと早いだろう。本当なら姉と同じ高校に行く予定だったが、受験に失敗しこの私立へ。正直、片親では苦しい経済状況だったのに。その辺の事情は自分からも聞かないし、母の方からも話さないのでどう工面してくれたのか分からないが――きっと自分の知らない苦労があったのだろうと考えると悲しい気持ちになった。

 

 受験勉強の時、泉水は心療内科に通っていた。
 何が原因かと聞かれたら、時々自分の視界に現れる『亡霊』の事だ。受験勉強中も、奴らはしょっちゅうやってきた。本棚の隙間から、カーテンの裏側から、ベッドの下から――ある時は勉強机の引き出しを開けると、そこに待機していた事もあった。こいつらは何もできない、と思って見くびっていると、話しかけてくるようになった。人殺し、親殺し、と罵られた。

 医者で処方された薬は何の役にも立たなかった。睡眠薬と精神安定剤を貰っていたが、薬に頼りすぎると日常生活に支障をきたすので結局のところ薬を絶たなくてはいけない。そうするとまた元通りに、おかしな幻に襲われる。耐えきれなくなった泉水は、ネットで見た情報を頼りにカッターを持ち歩く事にした。
 種類は問わない、刃物であれば何でもいい。愛着のある刃物を清めて、お守りとして持ち歩くというもの。彫刻刀やクラフトナイフやハサミや、色々見繕ったが、小学校の時から使い続けているカッターを選んだ。人を傷つける為のものじゃない、自分の精神を守る為の武器のつもりだった。

 

 校門をくぐった瞬間から、自分は一気に『脇役』になる。
 

 小学校くらいまでは、何故か理由もなく自分が主人公だと思っていた。けど、それは単なる妄想で自分は決してそうはなれないんだと確信した。――でもそれでよかった。むしろその方が、楽なんだ。妥協しているわけじゃない。自分の性格を考慮した結果さ、身の丈にあった役職を選ばなくては人生損をする……、

 

「江藤画伯、また女の絵ばかり描いてやがるっ!」
「うおおおお、女剣士だぜッ。おっぱいでけぇ~! 江藤ちゃんはスケベだなー!」
「か、返して……」

 

 教室に入ると、早速自分の『物語』が始まった。どうでもいい、すごくどうでもいい、つまらない物語だ。

 ちなみにこいつ――、同じクラスの江藤はチビでデブで冴えないクラスのオタクだ。その見るからに肥満体と、脂ぎった伸ばしっぱなしの髪、指紋でべたべたの眼鏡、風呂に入っていないのか持ち前の体臭なのか近づくと臭く、全体的に汚い身だしなみ。不潔な容姿や、挙動不審な態度から女子からは非常に気持ち悪がられ、男子からは深刻な暴力や嘲笑を受けていた。


 

#2 

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