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#10

#10-1 / 真っ赤な羊は故国へ

 僅か十四歳のキティー=ロマノフは、『死』が大口を開き冷たい吐息を浴びせてくる感覚を生まれて初めてその身に味わっていた。強烈なまでの血の匂いが、鼻腔を行き来してはともすれば遠のきそうになる脳裏を揺さぶった。

 そう、ここには――……この美しい白亜の屋敷の中には、今しがた夥しい程、それこそ気を失いそうな程の血が大量に流れたのだ。その血だまりを作り上げた邪悪なる存在が、自らの背後にある壁を這うようにしながら移動している。薄い壁一枚を隔てた先から、おぞましい呪詛のようにも聞こえる言葉と、それから息遣い。ひたひたと動いている『そいつ』からは、まるで生気を感じない。

「……コーディー! どこだ、どこにいるんだ!」――漆黒にうねる空間の闇を見つめながら、キティーは長い夜がまだ明けない事を静かに悟る。

 

「私の愛しい娘よ、どうか、どうかもう一度その姿を見せてくれッ!!」

 

 キティーは恐怖で漏れそうになる吐息を右手で覆う事で追いやり、それから声を詰まらせた。同時に、それ、が人ではなかった事を思い出した。……そうだ。相手は自分のよく知る男だったが、今や強靭な魔導書の導きによる魔力の代償として、人間である事を捨て去っていた。人間であるという事を捨てた、というのはつまり、『人でないもの』と化しているという事であった。

 

「……っ……!」

 兄・アーノルドとの戦いに敗れたその男・フレデリク=シャンテクレールは、精神のほとんどを邪神ダゴンに支配されながら、それでもまだ生きていた。中途半端に完遂したその秘術による負荷と兄が与えた霊力による損傷は目に見えて大きく、シャンテクレールは血でまみれた雑巾のようになりながらも玄室の上を這いまわっていた――、その姿は滑稽でありながら同時に哀れを誘った。

「コーデリア――どこだ――血で……頭が砕けて血で前が見えぬ……、コー……ディー……コーデリア……」

 

  吹き飛ばされた衝撃で全身の骨は砕けており、折れた肋骨は内臓に突き刺さっているのか大量の血を口元から吐き出している。頭蓋骨は陥没しており、顔の半分は潰れた状態であった。……普通なら生きているわけもない状態である。娘・コーデリアへの妄執だけが、彼の魂をこの世に繋ぎ止めている――、その娘というのも、もうとうにこの世にはいないのだけれども。肉塊と呼んでも差し支えない程に真っ赤な異物と化したシャンテクレールの姿に、かつてのような野心と栄光に溢れた逞しさは欠片もない。虚しささえ覚えた。

 

 キティーに兄や失った私兵達の弔い合戦へと向かわせるような価値さえ感じさせなかった。しかし――、キティーは一度息を整え、御影石で出来た立派な柱を背にしながらそれを覗き込んだ。……禍々しい叫び声は今もなお続けられている。味わった事もない恐怖感の中、キティーは只一人、いや厳密に言えば彼女の兄の頭部を抱えた状態で、一人と半分程。強烈な血臭に耐えながらキティーは己を奮い立たせる。

「……」 

 何とかして平静を装った。兄がいつも口にしていた言葉。

 

『恐怖や痛みは感じるものではない、考えるものだ。恐怖心を制しているのは皮膚や痛覚、視覚ではなく“理性”そのものなんだよ』

――理性。

 その言葉と、少し口元を持ち上げつつ微笑む兄の顔とを脳裏に浮かべるとどこか緊張が解けたような気がした。

 身を潜めていたキティーは、邪気による精神干渉とはまた別のとある痛みと戦っていた。それはもう誰も失いたくない、という痛切な思いである。……ああ、それから。キティーは両手に抱えた兄の『頭部』へと視線を落とした 目を閉じたまま、最後の力を使い果たした兄の顔はどこか安らかな表情さえ浮かべてさえいた。延々と続く円環の苦しみから抜け出せた彼は、ある意味幸福なのかもしれなかった――そう、邪神との激戦の末、兄の頭と胴体は切断された。何とか頭部だけは回収できたものの、胴体の方は未だ秘儀の時空に置き去りにされたままなのだろう。

 

「……、お兄ちゃま……」

 

 可哀想に。キティーはそんな兄を不憫に思ったが、しかしこの戦いで命を失くしたのは兄だけではない。自分を守る為にこの場で戦い抜きキティーを庇い、結果として命を落とした者の亡骸達もこの周囲にはいくつも残されている。

 キティーに仕える私兵達の無残な魂を失くしたその躯は、それぞれ首から上が消失していたり、片腕が丸ごと千切れていたり、胴体から真っ二つに切断されているものもいた。もっと酷いものは、互いの身体が衝撃でぶつかり合い一つの肉塊と化していた。よくよく見ると眼球が四つもついたその真っ赤な塊は自分の為にこうなってしまったといえども、直視に耐えられなかった。

 

 彼らのこの惨状を、残された者達にどう伝えるべきなのだろうか? 親に、祖父母に、兄妹に、友達に、或いは恋人や妻、そしてその子ども達に何と言葉にすれば――、

 

「――ごめん、なさい……」

 

 もしこの中の誰かが、私の罪を口にするのならば私は全てに許しを乞いそして甘んじて“死”にも服従するでしょう――そしてそれが最高の判断だと受け入れる。この身を捧げて罪滅ぼしになるのならば、それで構わなかったが、ともかく――ふっと辺りを見渡すと、魔力の後遺症なのか壁や柱と身体の半分が同化してしまう者まで存在していた。

 天井から上半身だけをこちらに向け助けを求めているようなポーズのまま、志願兵は息絶えている。皆それぞれ、何が起きたのかよく分からないような表情のまま永遠その時を止めている――。

 

「これ……全部、ぜんぶ。ぜんぶ――キティーのせい……キティーを助けようとして……みんな……みんな……みんなみんなみんな、死……、」

 

 それ以上はとてもじゃないが言葉に出来そうになかった。自分がいかに甘く、無力であるかを同時に知らしめられた。……私は無力で弱いロマノフ家の長女だわ。優れた文学の才知なんて何の役にも立たない! 私はペンで誰かを救いたかったのに、こんなのはあんまりだわ――その惨状を改めて見つめ、ぞっとする思いと共に強烈な罪悪感が脳裏を襲う。涙が溢れ、キティーは思わず兄の頭部を抱きしめる力に一層力がぎゅっと篭った。――もう離すまい。二度とこの手を放すまい――そうすれば兄上の魂ごと、手放してしまう気がしたからだ。

 

 涙を啜った次の瞬間に、キティーが見たのはやはり死体の山だった。――しかし、その死体の中に、強烈に目を惹く姿があった。無造作に折りたたまれもはやゴミのように積まれたこの世の地獄のような光景――その遺体の中、ひときわキティーの意識を振り向かせたのは女性と思しきか細い腕だった。大男の下敷きになるような形で、露出したその腕の先。左薬指に嵌められた高価そうな指輪。覚えがあった。

 

「……ステラ……」

 

 間違えようもない。シンプルな指輪なのでそれだけならば判断材料としては欠けていたかもしれない。しかし、最大の決定打は、彼女のその手の甲にあった小さなホクロだった。腕だけしか見えていないのは幸か不幸か。いずれにせよ、その腕もほとんどを切り刻まれ面白半分に爪や皮膚を剥がされたような形跡が見て取れるのだ。だとするなら全身はもっと……その先を考えてやはりぞっとした。

 

 ステラ=ムーアは、同じシャンテクレール家にて下宿していた女中の少女だった。少女、と呼ぶべき年齢よりもずっと上で(本人は隠していたけれども)恐らく三十代にさしかかるかそうでないかくらいのお姉さんだった。けれども確かに隠せば十代くらいに見える可愛らしさと、愛想のよさから常に男達は放っておかなかった、との話もよく聞いた。キティーにも何かとよくしてくれて、お下がりの洋服や装飾品をくれたりと姉妹とも呼べるし友達とも呼べる――そんな関係を築き上げていた間柄だったのだ。

 

「ステラ――そんな……どうして……どうしてあなたまで……!?」

 

 絶望の声を唸らせるキティーに、狡猾な怪物はその隙を逃すわけもない。彼の張り巡らせた罠だったのかそうでないのか、この際はどうでもいい。只――そう、見つかってしまったわけだ。例の邪神に、わたしは!

 

「コーデリアアあああああぁあああ!!!!!!」

「!? ひ……ッ」

 

 脆く半壊していた壁を突き破り、姿を見せたのは……ダゴンとの半融合を果たしているのであろう醜き老人――シャンテクレールの『成れの果て』とも呼ぶべき姿に相応しき邪神そのものだ。水棲生物を思わせる粘着質な膜に覆われた、ぬるつく四肢。半透明状の液体が、月明かりを跳ね返して血や体液と混ざり合い、ぬるりとして光っていた。これが何の生物なのか博識なキティーにもよく分からないが、ともかく、嫌悪感を抱くような代物であるのには違いなかった。人としてもまた何らかの生物としても不完全なその物体を前にして、キティーはお守り代わりのように兄の首を一層強く抱きしめた。

 

「コーデリア! 何故だ! 何故会えたのに、せっかく会えたというのに――わたしを、私を拒絶するのだッ!!」

「いやああああああぁああああっ!!!」

 

 反射的に身を反らせ、悲鳴を上げ、キティーはありったけの理性を持ち寄りその場を駆け出した。理性だけは失うわけにはいかない。正気だけは保たねばならない。

 

「コーデリア、私を……どうか私を一人にしないでくれ! お願いだぁっ!!」

 

 血の霧を吐きながら、シャンテクレール『だった者』は憎悪と悲しみの雄叫びを上げ、尽きぬ破壊衝動に突き動かされながらこちらを追いかけ続けている。

 

「おまえが、キティー、おまえが! おれがおまえだけを特別に大切に生かして大事に大事に大事に大事に大事に育ててあげた理由が分からないのか!?」

 

――理由ですって!? そんなもの、知りたくもない!

 

「それはキティー、お前がコーディーに似ていたからだ! 顔立ちの美しさに聡明な知性、その心優しさと芯の強さ……全てにおいてお前はコーディーを思わせたんだ!……だから。だから! 次の器がキティー、君がふさわしいんだ。娘の為に、娘の魂の入れ物となってくれ――」

 

 それまでは恐怖と驚愕と憎悪で致されていたシャンテクレールの声と表情に、どこか屈辱のようなものが滲むのが分かった。

 

――お兄ちゃま。お兄ちゃま。お兄ちゃま。お兄ちゃま。お父様、お母様……ステラ……フィリパ……みんな……!

 

 目をつむると、アレクトーやスノーの姿が浮かんだ。スノーは死に際の最後まで誰かを恨むような事は漏らさずに逝ってしまった――それは団長とて、例外ではなく。彼女の事を思うと益々救いようのない気持ちに晒される。ああ、どうして。どうしてあんなに心優しかった子が死ななくてはいけなかったの? 神よ、あなたはなんて残酷なお方なの。

 

「ああ……っ!!」

 

 キティーは屋敷の外を飛び出し、猛吹雪の吹き荒れる山中を裸足で逃げ回っていた。果せるかな、冬ともなれば極寒の地と化すこの付近において少女が一人逃げ回るなど到底不可能に近い芸当であった。全てを氷に閉ざされ、時の流れをも氷に閉ざされ――それでもキティーは逃げ続けなくてはならないのだ。氷の牢獄からの生還を果たし、兄の首をあのアレクトーの元へと届けてやらねば……それが今の自分に課せられた使命なのだから。

 降りしきる雪の中、邪神は視力を奪われた事によるダメージが大きいのかしばらくは追いかけてこなかった。キティーの小さな歩幅でも何とか距離を開く事は出来たものの、それももう長くは続かないだろうと――、

 

「お兄ちゃま、」

 

 弱弱しいキティーの言葉。しゃがみこむと、アーノルドの頭部がとさりと雪の上に置かれた。その頬に愛おしそうに手をやり、半ば諦めにも近いような心地でキティーは白くため息を漏らした。

 

「最後にまたあの、お手製のヴィクトリアンケーキが食べたかったですわ。……それから……アレクトーやスノーも連れてビッグベンの鐘を見て……楽しく、そんな一日を――」

 思い起こすのはそう昔ではない尊い記憶だ。何気ないあの出来事が、今はとても楽しかったのだと思える……。

『ヌホホ。出来んこともないぞぇ、めごい娘よ!』

「……、えっ……!?」

 

 どこからともなく響いたその声は――否、自分の手元の中から聞こえてきていた。そう、息を引き取っていた筈の兄の顔が……その口を開いたのだ。しかし話しているのは兄本人ではない事は、すぐに分かった。キティーはしばしの間、あんぐりとしていたがともかく向こうの出方を伺う事にする。

 

「……あなたは? お兄ちゃまじゃ……ないのね?」

「ヌホホホホのホ。そのとーりじゃ、ちょっとこの身体を借りちょるがそこはすまんのゥ。おぬしの名はキティー……んえーと、エカテリーナ=ロマノフちゃんじゃな? この男の義理の妹で、まあ大よその複雑な事情は把握しておるわい。話が早くて助かろーて? んん?」

「……そうか……、そう、ですか。……あなたが……」

 

 一人納得するよう、キティーは頷いた。続けた。

 

「あなたが、兄と共闘して下さって、この首を守って下さった――ルルイエ異本、様なのですか?」

 様、という敬称が相応しいかどうかは別にして……キティーは尋ねかける。兄の顔は白い歯を覗かせていたずらっぽく『のほほ』とまた妙な笑い方をした。この際話は別になってくるが、当然のことながら兄はこんな笑い方をしない。このルルイエ異本に宿る精霊は随分と独特な笑い方をするのだ。

「守った、だなんてエエ響きじゃの~。まあ、結果としてはそうなったからそれでよいのじゃがな? ヌホホホホ。……そうじゃ。賢い娘子よ。ワシの名は『ルルイエ異本』。元はあのクラウンに死者蘇生の術を授けていたが、あやつは取るに足らん。奴の使う贄どもはさして情も愛もない娼婦や親の愛を受けていないクソガキばかり。そんな魂に、この残虐なる邪神が喜ぶと思うてか?」

「……ごめんなさい。意味がよく分からない……わ」

「ヌホホホホホ、それでよき。良きなのじゃ、めごい娘!――まあ、あのクソブッサイクなバケモンも追いかけてきとる事だし時間もないからの。早い話が、この兄上様の首を我がルルイエに預けてみてはくれんかのう? そうすればきっとまた二人で幸福な世界へとスッ飛ばす事が出来るぞぇ。どじゃ?」

「飛ばす、ですって……? そうしたら……この世界はどうなるの? 死んでいった――ステラや……ダゴンの儀式に使われて異物を孕んでしまったフィリパは……」

「ん~。ルルイエ、そんなどうでもよい人の事なんぞ興味ないぞぇ~。でもまあ、多少の犠牲っちゅーもんは大義をなす為にはつきもんじゃよ、とながーーーい経験上ワシはよく覚えとる。ん、ま、あれじゃ。一つ言えるのは……」

 

 どこか意地悪そうに微笑みながら、アーノルドの首が饒舌に言葉を続けた。

 

「お前さん。兄と共に幸福な余で生きたいのであれば今すぐワシにこの首を渡す事じゃ。な。ここではない、遠い未来の世界で二人は幸せになれるのじゃ。どうじゃ?」

「遠い――未来の世界、って?」

「さあ、そりゃあ行ってみないと分からん。お楽しみぢゃ。ただここにいるよりはずっとずーっとワシはお前さんの兄を守っちゃる事もできる。どうぢゃの? まあ無理強いはせん、そもそも首の持ち主がもう目覚めたくないと拒否すればこの話は終いじゃからのぉ~。随分と勿体のない話じゃが強制はできんし……のうアーノルド?」

「……」

 

――目を覚まさない兄。微かに生気の残る兄。死んでいったフィリパやムーアの無残な遺体。未だに私を娘だと勘違いしているのか、邪神となり果てながらも自らを追いかける老人の肉塊。お母さまが死に際に見せた笑顔の意味。エマ様の蔑むようなあの目つき。スノーが最後に言った「私の思いが少しでも伝われば幸せです」――大量の手紙の意味。……それらが一緒くたいなってキティーの胸に選択を迫っていた。

 

 私は。キティーは。どうすれば。――どうすれば? 

 

「おにい、ちゃま」

 

 次の瞬間には兄の顔は元の安らかな死に顔に戻っていた。兄の頭部から美しいブルーの羽を持った蝶が飛び立っていく。……この夜が明け行くまでどうか共に。こうなって今、ようやく私は兄上がどれほどまでに大事だったかを知らされました。お兄ちゃまはきっとこの選択を望まないでしょう。お母様もきっと、一緒になってあの世からキティーを悪い子だと詰られるのでしょう、けれど――おにいちゃま。どうか。キティーの弱い心を……どうか、どうかお許しください。

 

 

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