#5-2 / 消えた狂犬とその噂
小学校三年生の時、タチの悪い奴として有名な悪ガキに買ったばかりのゲームを奪われた事がある。新品は流石に手の届く額ではなかったので、中古品を溜めたお年玉やお小遣いをはたいて何とか購入した。……が、結局そのゲーム機は自分の手元に返ってくる事はなく、後から聞いた話によるとリサイクルショップに売り飛ばされてしまったとの事であった。
しかし、そんな事件があってから一か月後、悪ガキは目の上に一つ青痣を作り、更には腕を骨折でもしたのかギプスをし、非常に痛々しい状態で登校してきた。彼は何かに怯えるような顔つきで、きょろきょろと周囲を見渡しながら、そそくさと自分の席に大柄なその身体を乗せた。たまたま身体の調子でも悪いのだろうと思っていたが、そうではなく自分に対して怯えていたのだと気付いたのは、三時間目の体育に入る頃合いだった。
その日の体育の授業はドッジボールで、きっと彼の事だから大喜びで自分に投げてくるものだろう……とちょっぴり憂鬱になりもした。彼の理不尽な暴力がいつ来るか、いつ来るか――と縮こまっていたこちらの予想を裏切り――いや、裏切る。というのも変な言い方だ。期待なんかしていないのだから――彼は目も合わそうとしなかったのだった。
逆に薄気味悪くすら思えてしまい、給食の時におかずをよそっていた彼にそれとなく用事を作って話しかけてみた。その日のメニューであった野菜炒めのピーマンが苦手だから、少し減らしてくれ、みたいなくだらない話を。するとどうだろう、彼は少し怯えた様子で「分かった」と呟き、今までに見た事も聞いた事もないような表情と声と丁寧さで、トレーにおかずを添えてくれたのであった。
胸に妙なしこりを残したままで帰宅すると、家のテーブルに新品のゲーム機が置かれていた。自分があの悪ガキに奪われたものとは違うカラーリングではあったが、驚いてこれはどういう事なのか母親に尋ねてみた。
「お父さんがね、貴方がゲーム機を失くしたって泣いてたから――」
思えば、こういう事はたびたびあったのだ。
例えば自分が誰かに虐げられ、泣きべそをかきながら帰ってくると決まってその翌々日くらいからはぴたりとそれが収まる。自分に心無い言葉を浴びせた者は、大人しくなるか、今日の悪ガキのように近づきもしなくなる。
他にも、少し意地悪な中年の女教師がみんなの前で計算式を解かせた時。途中式でつまらないミスをしたところ、彼女はそれを延々と責め続け、まるで見世物のように説教をした後に自分を廊下に立たせた。その教師は、一か月経つか経たないか、そのくらいの時期に『親の介護に入る』との理由で急遽学校を去った。
またある日は、中学に上がった頃。
何故目をつけられたのか分からないが、まあ何かくだらない理由で自分が通り過ぎるたびにひそひそ話をしたり、足をひっかけようとしたり、制服を切りつけてくる意地悪な女子生徒がいた。彼女とは小学校は別者同士だったが、昔からきつい性格で有名でたびたび問題を起こしていたそうだ。
喧嘩っ早い性格の少女で、中身同様に負けず見た目も勝気そうで派手な女の子だった。中学生にしながら化粧をし、校則違反のスカート丈と指定外のカーディガンからも分かるように非常に目立つ存在であった。そんな彼女と同じクラスになり、ある日は転ばされた後に背中を踏まれた。
真っ黒の詰襟の背中には、灰色の靴跡が残っていて彼女はそれを見てケタケタと大笑いした。制服を切られた時は、袖の辺りを少しカッターで裂かれた――というのもおこがましいくらいの、猫のひっかき傷程度の大きさのものだった為に「転んで」と言い訳できたものの、流石に背中にくっきりと残る足跡はうまい理由が思いつかない。
手で払ったり、水道で洗ってみたもののその痕跡を消し去る事はできず、結局母親に気付かれ、それが何かを答えるまで部屋に戻り勉強する事すら許されなかった。
「他には?」
母の神妙そうな顔とぶつかった。え、と不思議そうに顔を上げると、母は随分と据わった目つきのまま静かに問いかけていた。関係ないが、母は家ではほとんどどいっていいほどに和服を着ている。父がそう命じているらしく、また母も他所との付き合いでの交流に出向く場が多いだとかで母が世の主婦が着ているような、ラフで活動的な服装をしている姿は見た事がなかった。
「他には何をされましたか?」
「……え……」
「皆の前で転ばされ、制服を切りつけられ、くだらないあだ名をつけられ、悪口を言われ――他には何をされたか、今ここで母に全てお話しください」
怖れからではなく、只……日頃からの鬱憤とストレスもあったのかもしれない。先日、その女子生徒から、気になる別の女子生徒の前で「あいつ今、サチコの方エロい目で見てたぜ」なんて言われた事、音楽室の机の上に自分の名前と全く接点のない女子生徒との相合傘や心無い中傷と卑猥な落書きをされていた事(筆跡がまるまる彼女で、恐らくその取り巻きの生徒らだとすぐ分かった)。
そういった出来事を次々と思い出し――つい、間が差した。
「……一週間ほど前に、お金を持って来いと言われました。金額は一万円です。それは出来ません、生憎お小遣いをもらっている立場じゃないので持ち合わせがないのです、と丁重に断ったところ、教材を買うからと嘘をついて親からせしめてこいと言われ腹を殴られました」
「――、何という……」
「それでも無理だと断ると、もっと手酷く虐めてやるから覚悟しておけと言われました。それがつい、先程の話です。背中の足跡はその時に蹴られて……」
ある事ない事、話を『大袈裟』にしてしまったのだった。つい演技にも身が入り――いやいや。演技、とは相応しくない。不快な思いをしていたのは本当なのだから――男でありながら情けなく涙を流し、鼻をすすり顔を伏せる自分の姿を見て母はどう思ったのだろう。いや、可愛い一人息子がそのような目に遭わされてると知り、怒りの炎に打ち震えていたに違いない。
制裁はとても早かった。
翌日はいつものように、彼女とその彼氏、友人らによる悪ふざけからの軽い暴力を受けたがそれさえも快感に取って代わり、いつしか殴られながら微笑みを浮かべていた。自分には、約束された絶対の勝算があるからだ。
「何だこいつ、笑ってやがる! きも」
「殴られすぎてバカんなっちゃったの?」
一週間も経過しないうちに、まずは取り巻きの男子生徒が(こういうタイプが一番厄介だったりする。自分を誇示する為に、すぐに容易に手を上げたり罵ったりしてくるからだ)学校へ現れなくなった。
理由は交通事故で入院したからだった。
授業中、気に入らない事があると奇声を上げて暴れ、机を蹴ッ飛ばし、教師に文句をつけ何かと妨害する彼が排除されて皆もどこか嬉しそうですらあった。
二日目、今度は二人同時に学校から消えた。
一人は『熱が出たから』と連絡が入ったきり、もう一週間も二週間も席を空けたままになった。二人目は、父親が突然逮捕されたのを理由にしていわゆる登校拒否児となった。元々、警察からマークされていて、逮捕状が公のものになったそうだ。ちなみにその内容は、『女子トイレの盗撮』。罪状が罪状なだけに、恥の上塗りだろう。
三日目、主犯の女子生徒の彼氏が他校のヤバイ連中から呼び出しを食らい、河川敷でリンチに遭い入院した。端正な顔立ちだったが、見舞いに行った者の証言によれば腫れと陥没のせいで見れたものではなかったとの事である。二度と健常者としての生活はできないだろう、との話だった。
そして四日目。主犯格の女子生徒にも、とうとう裁きの鉄槌は下された。それは元より、彼女の為だけに用意されていた結末のようですらあった。彼女は未成年でありながらクラブ通いが日課だったようで、その日の晩も彼氏の見舞いの後に夜の街へと遊びに繰り出した。クラブでナンパしてきた見目のいい男についていき、男に言われた通り友人を先に帰らせ、そして連れ込まれた車の中で一晩中かわるがわる色んな男に暴行された。その一部を聞いただけで、顛末はあってないようなものだと感じた。
自分のやった事に罪の意識など微塵も感じていない。
刻まれた暗黒を少しばかり、彼らに分け与えてやっただけの事だった。何より、これしきの事で彼らの世界は砕けないのかもしれない。自分が考えているよりもその絆が強固なもので、揺るぎのない確立されたものなのだとすれば、自分がやった事は復讐にも満たない単なる茶番劇なのだ。
けれども、彼女達の今度に思いを馳せずにはいられない。
悲しみと憎しみと、絶望に絡めとられて涙を流すだろうか。夜が来るたびに、朝が来るのを恐れ慄くようになるのだろうか。治る見込みのない怪我を負わされた男子と、彼氏がいながら顔のいい男についていき挙句輪姦された女子を見て、周りは何と思うだろうか。蔑むだろうか。それとも哀れむだろうか。まあ、どちらでもよかった。
そんな彼女らの今後を好き勝手に想像すると、凶暴な思いに心が支配されるのを止められなかった。――風の噂によれば、どこかのエロ動画サイトにて『これはやばい! 女子●学生のガチレイプ中継!』と俗っぽい見出しと共に、薄暗いワゴン車の内部で泣き叫ぶ女の子の動画が流通した。とにかく画面が暗く、更にはカメラがぶれまくり、何が何だか分からない為か低評価が殺到していたものの本物か偽物か、検証するまとめサイトまで立ち上がる事となり、いつしか名前も住所も特定され、過去から何までを全て暴かれ、ある事ない事全てをネット上に書かれ――。
彼女はその存在を抹消されたも同然だ、との話だった。
彼女が学校へ現れなくなってからも、父と母は変わらず自分に接してくれた。
「最近、学校はどうだ?」
夕食中、父がはんぶんだけ微笑みながら問いかけてくる。おかずの焼き魚を箸でつまみながら、「楽しいです」とだけ答えると、満足そうに父はまた一つ微笑んだ。
高校へと上がる頃には、そんな自分の噂も一人歩きし、イジメどころか友人さえもできなかった。県内ではトップクラスとされる進学校へと入ったのもあり、そこまで酷い荒れた人間などいないだろうとは思いつつ、どこにでもおかしな人間ってのは存在するらしい。入学した高校にも、いわゆる不良みたいなのはちょこちょこといたようなのだが、そんな存在ですら自分に恐れをなして道を譲るのだ。
それは決して自分への尊敬の念や賛美からくるものではなく、「関わってはならない」という本能から来る警鐘のようなものであろう。自分よりも数倍図体の大きな、ボクシングをやっているようなゴロツキのような見た目の生徒でさえも視線一つで震え上がらせる事が出来た。
学食へと入ると、皆が慌てて席を立って出ていくので食堂がほぼ無人も同然となった。なので、一人で席に着き、それからゆっくりとした時間を楽しんでいた。その日も変わらず、自分が入室した途端に、お喋りをしていた女子生徒らがすぐさま立ち上がり席を離れ、また別の男子グループは食べかけにも関わらず食器のトレーを持ち逃げ腰で歩いていき、また別の男女混合グループは顔を青ざめさせて同じく逃げるように立ち去って道を譲るのだった。
――だが、その日ばかりは、いつもと少し様子が違っていた。いつも座るテーブル席に、腰かけたままの女子生徒がいるのだ。普段なら有り得ない光景に、思わずトレーを持ったまましばし硬直してしまった。
「……、俺は今からここで昼食を食べるつもりなんだけど」
「だったら何かいけない? 別に、ここはみんなのスペースでしょ?」
あんぐりと口を開くこちらをよそにして、その女子生徒はけろりとした様子で聞き返してきた。ごく当たり前の事ではあるが、日頃の自らの素行を顧みると信じられない言葉だった。余程度胸があるのか、それとも無知なだけなのか、再び彼女に目を移した。
――佐竹櫻子
彼女は、同学年の女子生徒らの中でもひときわ目を惹く美人だった。自分も全く興味がないわけではない。一目見て、彼女から目を離せなくなる者も多いと聞いたがその理由がよく分かる。
改めて櫻子の顔を正面から見て、その整った目鼻立ち、大人びて上品で、それでいて気取った嫌味さのない優しげな顔立ちに心を奪われる。化粧はほとんどしていないようで、リップクリームと大差なさそうな薄いグロスだけがはっきりそうだと分かるくらいか。
眉毛は気持ち他の女子らよりも太めであるが、決して野暮ったくはなく今風に整えられている。その下に輝く、無邪気さの奥に儚さと昏い翳りを宿す瞳。やや血色に乏しい白い肌がどこか薄幸な印象をこちらに残す――しばらく彼女に目を奪われたように呆けていたが、慌てて意識を揺り戻す。
櫻子は学食で頼んだのであろうオムライスを頬張りつつ、もう片手にはカバーのかけられた文庫サイズの本を読んでいた。食事中に案外行儀が悪いと思いつつ、それさえも無邪気だと笑って許せそうなのはやはり彼女の事を悪く思っていない、動かぬ証拠なのかもしれない。
「私、窓際のこの席が好きなの。ここで本を読みながらゆっくりご飯を食べるのが楽しみなんだから」
悪びれもせずに微笑む櫻子は、他の人間のように席を立つ気配もなく、まして自分もどこか別の場所に移動するでもなく。結果、同席というか――向かい合う形で何となく腰かけた。ほとんど無意識のうちの行動だったかもしれない。何となく、うっすらとだがこの一人の女子生徒への興味が沸いていたのもあるのかもしれない。
「……その割には今までここで出会った気がしないな」
「いつも来ているわけじゃないもの。けど、貴方がいない時は毎日こうやってここにいたわ」
「――なるほど、ね」
納得したわけではないが、櫻子がそういうのならそうなんだろう――と、今は思うしかない。事実、学食へ足を運んだのは久しぶりの事で、何だか急にこのカレーうどんが無性に食べたくなったのもあった。正直特別美味しい代物ではない……とは思うが、何故か思い出したように食べたくなった。割り箸を割りつつ、湯気の立った汁の中に箸を突っ込んだ。
「お前、知らないわけじゃないんだろう。俺の事」
「何が?」
平然と聞き返す櫻子の顔からは一切悪意のようなものは感じられなかった。不思議そうにそのはっきりとした眉を上げ、構わず食事を続けていた。
「俺の噂だよ」
「?」
「俺に関わった奴は大概みんな不幸になる。見てみろよ、ここに俺が入った瞬間明らかに空気が変わったのに気付かなかったか? 見渡してみろよ、誰もいない。厨房にいる連中の顔つきも明らかに異質なものだろ、どいつもこいつも見て見ぬふりをしていやがる」
櫻子はそれを聞いても別段興味を持っている風でもなく、あっさりと「ふうん」と受け流した。自分の話をして怯えなかった女は、これが初めてだったかもしれない。何としてでも降伏させてやりたいという闘争本能のような思いが頭をもたげ、つい躍起になったように次の言葉を紡いだ。
「俺が周りから何て呼ばれているか知っているかよ」
「全然?」
呼んでいた文庫本から顔を上げ、櫻子がゆったりとした口調で返した。
「“教室の死神”だってさ」
「何、それ」
すかさず櫻子は可笑しそうに笑い、緩んだ口元を指先で押さえた。白く綺麗な指先に目が行き、透明な笑顔と嵩んで目が眩みそうになった。くすくす、と櫻子は唇を上げ、無邪気に微笑んでから再びこちらを見つめた。
「そういうの、好きなの?」
「何が?」
「人に怖がられたり、避けられたり、そんな風にあだ名をつけられたりするのが」
彼女の視線はこちらにしっかり向けられていた。
「……まさか。流石にそれはないけど」
「じゃあ、どうして何も知らない私まで追いやろうとするの?」
それは何か責めたり軽蔑したり、こちらを咎めるようなものではなく、只不思議に感じている事を口にしただけといった調子であった。
「――だって怖くないのかよ。アンタも、気付かないうちに巻き込まれてもし何か起きたらどうするんだ?」
「その時はあなたが私を守ってくれればいいじゃない」
肩を竦めながら、櫻子がスプーンを置いてゆっくりと呟いた。意味、というか意図が飲み込めずに、啜りかけのうどんもそのままにして彼女を見つめていると、その姿が可笑しかったのか櫻子はまたクスクスと笑った。
「うどん、口から出てるよ」
可笑しそうに言い、櫻子はこちらを指差してまた一笑を浮かべた。慌てて食べかけていたうどんを啜ると、そうしている間に彼女は食事を終えたトレーをまとめて立ち上がった。手元の文庫本を持つと、櫻子は通り過ぎ際にこちらに向かって微笑みかけながら言った。
「じゃあね、死神くん。またどこかで一緒になれたらいいね」
意味深な彼女の言葉に、何かを期待する程の純粋さは持ち合わせていない。けれど、その眩しい笑顔はいつまでも胸に刻まれたままで燻る事はなかった。
きっかけやなれそめなんて、第三者からすればくだらないものに過ぎないんだろう。彼女とのその些細なやりとりが自分にとってどれほど真新しく鮮明なものであるかなど、説明したところで誰かに分かる筈もないだろう。
佐竹櫻子とはそれ以来、校内で会う時も軽く挨拶をかわすような間柄になっていた。廊下ですれ違った時や、別の教室でたまたま居合わせた時など、彼女の方から何らかのコンタクトを取ってきた。
櫻子はその容姿にしたってそうだが成績優秀なことも手伝ってか他の生徒達からも男女問わずに人気があるようだった。自分とは違い、彼女の周囲には常に誰かしらが存在していた。そんな彼女の『特別』になりたいだなんておこがましい感情は決して抱かない。只、時々こうやって会話が出来たらそれでもう十分だと思った。――只、それだけで良かった。
「最近、何か楽しい事でもありましたか?」
父親が不在の夕食の時、母がそんな風に尋ねてきた事があった。顔を上げると、いつもと変わらぬ装いの母がそこにいた。何故かその存在感に威圧され、別に後ろめたい事があったわけでもないのに一瞬息を飲んでしまった。
「――変わらず楽しい学校生活を送っています」
「そう。ならば良いですわ」
しかし妙だった。
どうしてこの人は変わらずこう、気丈な態度を崩さずにいれるものか。父は外に若くて美しい愛人を何人も囲い、今日も夕食へは姿を現さない。それが日常化していて、母はそれにずっと気付いている。気付いているが、知らないふりを貫き通しているのだ。
「……母さんは良いのですか?」
「え?」
「父さんの素行に不満はないのですか」
その日、初めてであった。そんな風に母に父との関係について問いただしたのは。息子から恐らく自分にとっては最大の禁忌であろう、目を背けてきた事実を口にされ一体何を思ったのだろうか。母はすぐには何も答えなかったものの箸を持ったまま、しばらく喜怒哀楽のどれにも属さない表情でこちらをじっと見つめていた。
「あのお方は、母さんという人がありながらまた別の存在にもうつつを抜かしております。そんな事が許されていいのか自分には到底理解が――」
「お黙りなさい」
静かに威圧するような声が飛び、同時に母は箸を食卓の上に叩き付けるようにして置いた。
「あの方は今まであなたが幸せに暮らせるよう、最低限の務めは果たしてきているでしょう。貴方がここまでを無事に過ごしてきたのは誰の為だと思っているの?」
母の顔を見て、はたと気付いた。――ああ、この人は怯えている……自分が日に日に老いていく事、若い頃の美しさを失い、いつか父に捨てられるのではないかという恐怖に――紛れもなく母はそれでも父の事を愛しているのだ。いや、愛しているかどうかは分からないが、彼から興味を失われる事に怯えている。
夕食を終え、ふらふらとした足取りで父の書斎へと赴いた。普段はそこへ立ち入る事が禁じられている。鍵をかかっているのがほとんどだが、その日はまるでそうする事を仕向けられたかのように半分だけ扉が開いた状態で自分を迎えていた。
何故か櫻子の姿を求めるよう、ドアノブを開き、十数年この家にいながら初めてその部屋へと入る事が叶った。小難しい本が並ぶ棚を見送り、革製のソファー、埃一つとして乗っていないガラステーブルに、閉め切られたブラインド。どこかの社長室を思わせるような、部屋そのものが厳重な重圧感に満たされたその空間で、パソコンや作業用の資材が置かれたエグゼクティブデスクへと足を動かした。まもなく辿り着いた。引き出しを開いた。
「……これは……」
几帳面な父親からは考えられない程乱雑に突っ込まれた、中身のはみ出たファイルや茶封筒。ぐしゃぐしゃに丸められた用紙。続けて引き出しを順番に開けると、信じられないようなものが次々と姿を見せた。いわゆるSM用のグッズというのか、奴隷につけるようなトゲのついた首輪や何らかの錠剤、赤色のロープ、名称などは知らないが手枷や猿轡のような何か。それらはまだ笑って済ませられそうだが、次に開いた引き出しに詰められていたのはほとんど拷問具に等しいものたちだった。
思わず息を詰まらせた。それらには全て変色した血の跡があり、使用の痕跡が認められたからだ。注射器や浣腸器のようなものも、ごちゃごちゃと、まるで小学生がおもちゃでも片付けたかのような雑さで詰め込まれているのも気味が悪かった。
視線は最初に見たファイルや封筒へと戻っていた。震える手でそれを手にした。見てはいけない、と自らの中で警鐘が促されたが、背後で何故か櫻子の声を聞いたような気がした。理由は分からない。だが、彼女の幻が耳元で囁いた。
『見て。目を逸らさないで、ちゃーんと見て。何が真実? ちゃんとその目で見定めるの』
しばし固唾を飲んでると、僅かに開いたままの扉から声がした。同時に、扉が軋んで開く音も。
「最近、あなたに近づいて来る小便臭い小娘がいるでしょう」
分かり切っていたが、母親の声だった。
無視して、先を急ぐようにその封筒の中身を開いた。中から出てきた写真には、父の愛人と思しき若い少女らが被写体として収められていた。どれもこれも情事中のものだろう。性行為に励んでいる中年の顔と、父の普段の顔を思い浮かべてみた。思わず口元を押さえた。少女たちはどれも自分とそう変わらないくらいの年代、或いはそれよりももっと下かもしれない。下手をすると、月経もまだ訪れていないような面立ちの世代もいた。
写真を次々とめくった。どれもみな、吐き気を催すようなものばかりだった。中には泣いている、まだ幼い少女の姿も見られた。――今更のように、過去の出来事が津波のように自分の中に押し寄せてきた。罪の意識が一気に覆い被さってきた。自分がしてきた事がいかにおぞましく、また惨たらしいものであったのかを自覚させるには十分であった……、
『私を守ってくれるんでしょう?』
目まぐるしく震える視界の中で、櫻子の声を再び聞いた。揺れ動く景色を、振り切るようにして封じ込めた。それでも呼吸が整わなかった。
「その小娘も、いつかはあなたにとって災厄をもたらす存在になるわ。どうしてあなたに近づくか、真意を考えた事は……?」
「……来るな……」
部屋に入ってきた母親の片手に握られていたのは、自分が幼少期に愛用していた金属バットだ。目にした途端に、懐かしさを覚えた。そういえば、ある日突然のように部屋から消えていたのだ。母に聞いても「知らないわ」ととぼけていたのは、この為だったのか。何だ。そうだったのか。
バットを引きずりながら、母はまばたき一つせずこちらへと向かってくる。金属の擦れ合うカラカラ――、という音を聞きながら、無意識のうちにデスクの上に置かれていたハサミを手にした。握り締めた指先に力が込められた。その矛先が向かうのは確実に、今まで自分を育ててくれた筈の……その存在へと。
「あなたに取り入って、それであの人にも近づこうとしているのよ。あなたが入れ込んでいる櫻子っていう娘は。母さん、知っているのよ。全て調べたんだから」
「やめろ!!!」
自分でも驚くくらいに大きな声が腹の底から漏れた。櫻子の笑い声が脳内をぐるぐると行き来していた。守ってくれるんでしょう? ああ、そうさ、守るよ。母の背後で微笑む櫻子の幻影は、制服姿のまま。俺は彼女を彼女を彼女を、彼女を絶対に――、
自宅前。時刻は、夜の九時にさしかかろうとしていた。壊れかかった街路灯の下では闇に紛れるようにセダンが一台停まっている。
彼の住む家は、この付近じゃあ有名な、白亜の豪邸だ。単なる個人の邸宅とは周囲にいる者が誰も思ってはいなかった。
洋風の造りをしたその館の前、制服姿の少女が佇んでいた。
夜気を仰ぎながら、少女――櫻子はその長い髪の毛を夜風に遊ばせつつ館を見上げていた。漆黒のブラインドで遮られているその室内の様子は拝めなかったし、完全に防音設備であろうその建物からは音一つ漏れてこない。……しかし、内部で今しがた起こっているのであろう惨劇については把握している。
櫻子はしばらくそうしていたものの、やがて踵を返し、セダンの前へと引き返してゆきそのまま助手席側の扉を開けた。運転席では、既に二本目の煙草を吹かしている中年男性の姿があった。車内には、例の豪邸内に仕掛けられた盗聴器から室内の絶叫と共に効果音が垂れ流しにされていた。男はハンドルを握り締めながら、それがありのままに今現在起こっている出来事だと思うと、ましてや自分の身内同士が殺し合っているものだろうとは――いくつもの無残な状況を経験してきた身と言えど落ち着いて聞けるものではなかった。
しかし、櫻子の方はと言えば表情一つとして変えず、やはりどこか心ここにあらずといった面持ちのままシートに腰かけただけだった。
「……奥さんと子どもなんでしょう? 本当に良かったの?」
正面を向いたまま、櫻子がそんな風に問いただしてきた。何か、慈悲のような心からそうやって尋ねたようには、とても思えなかった。
「――おいおい、作戦を持ち掛けたのは君の方じゃないか。今更そんな質問をするのは野暮というか酷だぞ」
「分かっているわ。ちょっと興味があったから聞いただけ」
興味、ときたものだ。自分はこの自分の息子と年齢の変わらない小娘の一人の美貌に狂って、自らの家族を差し出し、こうして殺し合わせたというのに。しかし櫻子はこちらの思いも見抜いているのか、見透かしたように鼻先で笑い、肩を竦めただけだった。
「まァ……、それはいいんだ。最近の彼女には少しうんざりしていた、病的すぎる監視や執拗な干渉――目に余る行動が目立っていた。いっそ離婚してやっても良かったが、処理やらが色々と面倒でね。その気力すらも削いでくる億劫さが、あの女にはあった」
もはや言い訳のようにしか聞こえないその台詞を並べ、櫻子はどう受け止めたのかは知らないが、「そう」とだけ呟いた。それからまた、車窓から見える自宅へと視線を移した。美しい横顔のラインが、うっすらと笑顔を称えているように暗がりに見えた。華奢な印象の身体つきは、いつものようにすっと背筋が伸びていて、月明かりの下に浮かんでいる。
「……お前は恐ろしい女だな」
意に介した様子もなく、櫻子は微笑み続けていた。底の知れない笑顔。誰に対しても彼女はこうやって、たおやかに笑いかけてくる。全てを受け止めるかのような、天使のような女神のような、そんな言葉でも形容しきれない程の美しい笑みで迎え入れようとする。
「わたしが聞くのもおかしな話だろうけれど、君は悪い事をしていようが何とも感じないのか?」
「悪い事なんか一つもしていないわ。いい事もしていないけれど」
その言葉が、彼女の全てを物語っている気がした。
彼女の世界には、正義も悪も存在しない。常人ならば当たり前に存在する筈の感情。本来ならば『いずれかのうちのどちらか』で分けるべきの出来事も、彼女にとってはどちらでもいい事に過ぎない。彼女の中には、善悪の感情や、何か即物的なものによって動かされるような何かが一つとして介在しないのだ。それがこの、佐竹櫻子という美しい入れ物の中に確立している、ルールなのだろう――
木崎というその男は、構えこそしないが警戒は解かない。
ベイビードールが慌てて立ち上がり、木崎と対峙する。その背後、ネームレスはどう立ち回るべきかしばし観察する事に心のうちで決めた。――しかしこの木崎、自分の方には視線もくれないが……内心では俺の事をしっかりと見ているんだろう。俺がもし奇襲でも仕掛けようとおかしな動きを見せた途端に、こいつは情け容赦なく襲い掛かってくるだろう。
先程預かった銃の使い場所は弁えなくては、と身が引き締まった。まだ『目覚めた』ばかりの自分では何とも言い難いが、今の木崎から殺気はあまり感じられない。殺す事よりも降伏させる目的の方を優先しているように、今の自分の目には見えた。その判断が身を滅ぼさねばいいのだけれど。
「……教えてあげようか、一つ」
ベイビードールに向かって、木崎がさも親し気にも取れる口調で話しかけてきた。声色だけに耳をすませば優しそうな印象を受けるが、言い換えれば不気味でしかなかった。
「只勝ちたいだけなら、不意打ちをすればいい。それこそさっき君が俺にしたみたいにね」
「――何なんだよ、急に」
真意の読めない行動に、ベイビードールは構えながら剣呑を孕んだような声色で答えた。――まずい、相手のペースに乗せられるんじゃないぞ。おまえ。――そんなこちらの心の声等は多分、彼には届いちゃいないだろう。
「そして目玉に触れるか、相手が男なら睾丸を掴むか。負けを認めないなら、このまま潰す。と、脅しかけるだけでもう十分さ。大体の相手は屈服する、それだけはやめろってね」
「それを今から俺にもやろうって事? っかー、あんたとんだサイコパスだねえ。こんな可愛い見た目の子に、そんなヒドイ真似ができるんだ?」
「だってこれは試合じゃないんだろう。もしルールのある試合なら話は別だ。しかしそうじゃないんだと言うなら――俺はそういう勝ち方も厭わないし、卑怯だろうが何だろうが……」
木崎が静かに息を吐いた瞬間だった。言い置いて、彼は半身を右に振りかぶり、拳を引いた。鍛えられた身体から放たれる弾丸のような一撃、ベイビードールは不意打ちに取り乱したのか何なのか、あれ程銃は出すななんて言っておきながら自身が懐からハンドガンを抜き出していた。
只、射撃が目的ではないのだろう。彼の拳打を塞ぐ盾代わりに用いたのだろう事は、まだモヤのかかったネームレスの脳内でも理解できた。しかしそれが正しい判断かどうかはさておきにして。金属の塊を殴った木崎の拳だったが、彼へのダメージはまるで見えなかった。痛みにあまり頓着しているようには見えず、すぐ腕を引くと、再び同じ拳で、弓を引くような動作と共に構わず打った。次こそはベイビードールの手から拳銃が吹っ飛ばされ、ハンドガンが落ち、それから虚しく床を踊った。
(そこで取り出す奴があるか、俺でもしないぞそんな真似!)
と、心の中で罵倒したところで遅い。背後から口出ししたところでベイビードールがそれを聞き入れたかどうかは怪しいところだが。
「っ……」
はっ、とベイビードールがツインテールを翻し、カウンターを狙おうとしたのが分かった。が、この木崎という男は相当な手練れなのだろう。それさえも先読みしたよう、ベイビードールの内股を蹴り飛ばし、小柄な彼の身体はあっさり宙を舞い、どさりと倒れ込んだようだった。
背中を打った衝撃で、ベイビードールはしばしむせ込んだ。
「俺にとっては勝つという結果だけが重要なんだよ。……だから俺は自分のやり方を卑怯だとは思わない。過程や手段なんかいちいち選ばないし、ましてや人格的評価やモラルや人道に反する、なんていう説教や横槍はどうだっていい。というか、クソ食らえだと思うよ。そういう雑音は、ね」
手を突きながら何とか起き上がり、ベイビードールが悔しそうに舌打ちをさせたのが分かった。それを見守りながら、ネームレスは続いて木崎の方を見つめた。
――この木崎って男……マトモに格闘技を嗜んでる奴から見りゃあイカれてるかもしれないが、もし殺しを仕事にしている奴だとすれば……それは十分筋の通った言い分だ。しかもこいつはまだ手の内の半分も見せきっていないだろう、今の蹴りだってきっと奴からすれば只のお遊びみたいなもんだ……
ネームレスが眉間に皺をよせ、木崎を一瞥した。ニコリともしていない彼の顔からは一片の感情も見当たらないが、ともかく一筋縄ではいかぬ相手だ。先程相手した化け物と比べれば――いや、比べる相手がまるで違う。知的な部分のな戦略のない化け物と、戦いを潜り抜けてきたこいつとでは戦い方も全く違うだろう。只殴り掛かるだけでは、当然勝ち目はない。
「へぇ~。ごちゃごちゃとよく喋るね、お兄さん。小難しい事くっちゃべって。男前は何言ってもサマになりますねぇ」
「強がるなよ。君と今少しだけ拳を合わせてみて、分かった事を教えてあげようか」
ベイビードールを見つめながら、やはり起伏のない声で木崎が呟いた。ベイビードールはよろよろと立ち上がりながら、気丈にも木崎を睨み返し続けていた。まだメンタルは折れていないようだが、どう切り込むつもりでいるのかは謎だった。
「君は恐れているよね、自分の身体が傷つく事を。よっぽど大事な身体なのは分かったけれど、自分の身を庇いながら戦って――そう簡単に相手を倒せると思うのかい?」
「っ……!」
痛い部分を突かれでもしたのか、ベイビードールは目に見えて狼狽えたのが分かった。……なるほど、とネームレスはベイビードールの悔しそうな顔を見て思った。その少女のような身体の持ち主が、彼にとってはよっぽど大切な存在だったのだろう事はすぐさま想像ができた。親友、家族、恋人――何か親密な間柄の人間の身体を借りているんだろう、大事に扱わなくてはならない事情があるのは理解できた。
「相手には勝ちたいけど、自分は捨て身の攻撃も行わずに傷一つ負わず綺麗な身のままでいたい――なんて、それはちょっと都合が良すぎるんじゃないか? 俺からしたらそんな覚悟もなく挑みかかる方がよっぽど卑怯なやり方と思うよ」
木崎の言葉は、確実にベイビードールの脆い部分を攻撃したのには違いないだろう。彼は奥歯を噛みしめたような顔つきで、言葉に詰まったように、只々木崎を見つめ返すだけであった。
「……おい、もういいだろう。そろそろこっちの事も構ってもらおうか、放っておかれていい加減暇なんだ」
「――、あ。そうだったね。もう一人……残っているんだったな」
ネームレスが呼びかけると、木崎はやはりさも大した事でもないような仕草でこちらへと視線を向けた。相変わらず感情の起伏に乏しい、何も読み取れない透明な顔だった。彼の視線を受けると、緊張が一段階持ち上げられた。