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#5-1 / 消えた狂犬とその噂

 薄暗い廊下から、非常口を示す緑色の光が揺れていた。歩くたびに、どこからともなく漂う消毒液の臭いが鼻を通り抜けていくのを感じた。時々ふっと立ち止まり、木崎は耳を澄ませてみた。
 扉の隙間から様子を伺うも、何かが聞こえたり(古びた空調の音は微かにしたけれど)、何かの気配を感じたりはしなかった。

 つまりは、特に何の異変も見受けられないのだった。

 ここの病棟に、一体何が収められているのか自分達は一切聞かされない。『重病の患者だ』とか『治る見込みのない状態の人々がいる』とか、表では取り扱えない案件を抱えた人々が入院しているそうなのだが、結局のところじゃ機密事項……という便利な言葉で片付けられてしまい詳細は何も知らなかった。

 

 今期になってから急遽授けられたこの特務機関に、半ば強制的に配属になった誰もが何も言い出せなかった。文句は愚か、真っ当な意見さえも黙殺された。それで、本社から直々にここの警備をと任された時も、木崎は何の反論もしなかったし彼に異動を言い渡した上司も思惑通りだと感じていたのだった。

 

 ここの見回り自体には慣れていたし、どうという事はないのだが――どうも今日の巡回はいつもとは少し違うイレギュラーパターンのようだ。毎度お馴染みの誤作動によるアラームではなく、はっきりと何かが起きたようである(まあ、現時点では発見できていないのだけれど)。
 

 内部の人間にさえ、この“特別に授けられた機関”が誰がどういった目的の為に設置し、またどのように動かしているのか把握していない。そんな存在がもし、ちょっとでも外部に知れたりしたら「まあ、大変!」どころの騒ぎでは済まされないだろう。砂粒程の情報でも漏らしてしまう前に、騒ぎの原因になりそうなものは些細なものでも消す。……それが今の自分に与えられた仕事なのだと思うべきなのだろう。

 

 ひとまず入り口の周辺には何もないようだが――と、木崎は更に奥深くへと進んでいく。動くごとにチャリチャリ、と腰につけた鍵類の擦れ合う金属音がするだけでそれ以外に目ぼしい物音はやはり聞こえない。

 

「……」

 

 切れかかった蛍光灯を見上げつつ、カチカチカチ――と点いたり消えたりを繰り返すその音にしばし耳を澄ませていた。ここまででまだ、特に目立った何かは見つけられず、諦観したようなため息を吐いた。

 しばらくその薄暗い廊下を進んでいると、異臭がつんと鼻を突いた。同時に、大昔の記憶を掘り起こされる。目の前で死んだ叔父の姿が脳裏に揺り起こされた。軽い眩暈を覚えてふらついたが、すぐに顔を上げた。

「叔父さん」

 

 かつての叔父が、変わらない姿でそこに立っているのを認めた。叔父はうっすらと口元に力なく微笑みを浮かべていた。皮肉っぽい、消え入りそうな笑顔だった。――どうせ幻だ。分かっていながら、首を横に振ったが、しかし木崎は彼の姿を求めるようにその足を動かしていた。

 

「……待ってくれ!」

 

 乱れそうになる感情を押しとどめるのに必死になった。
 行ってしまう。叔父さんが――、曲がり角を進む叔父に追いすがるよう、木崎は気付くと駆け出していた。現実が現実でなくなり、深い底なしの暗闇に呼ばれているような感覚。しかし、求めずにはいられなかった。叔父の姿を。

 幻だ、夢だ、それも悪い類いの――と、知りながら木崎は求めずにはいられなかった。叔父の幻を追いかけ、突き当りを曲がる。先に感じていた異臭が、より濃いものとなる。……仕事上、嗅ぎなれていた臭いだ。金属錆を思わせるむせ返る香り、これは――踏み出した先には案の定、大量の血だまり『のみ』が出来ていた。


 それを知った時には、叔父の姿はもうどこにもいなかった。

 リノリウムの床の上には、大量の血と体液が飛び散っていた。
 死体そのものは見当たらなかったので、その血痕を木崎は辿った。誰かがその上を跨ぎ、踏んだり滑ったりしたのであろう足跡と共に、攻撃を受けながらも激しく抵抗したような痕跡も認められた。

 壁やら床に、刃物のような切り傷が走っているのを視界の端に留め、木崎は息を潜めながらそれらを見送った。相手は武器を所持しているわけか――そこまでを考えて、木崎は気持ち背中を壁に寄らせつつ、周囲を見渡した。襲撃者の姿もそうだがこの血を流したと思われる当人の姿も見当たらないのは何故なんだろうか? 仕事柄、そんなに簡単に背後を許し、挙句殺されたりするものだろうか?……案外、まだ息があり、どこかの部屋で助けが来るのを待っているのかもしれない。

 注意深く――それこそ扉の陰に潜んでいるのかもしれない――部屋の扉を開けつつ移動した。何故か扉の全てに鍵がかかっておらず、且つ中に誰かがいる気配もしない。これが意味するところが何なのか今一つ結びつかず、木崎は無意識のうち顔をしかめた。それから、そう時間はかからず次に手を伸ばした部屋の戸が閉まっていた。

 

 露骨すぎてひょっとして何か罠なのかもしれない、とも思わなくもないが、まあ時間の短縮にはなるかと思った。小細工だの駆け引きだの心理戦だの、はっきり言ってチマチマとやるのが性に合わない。木崎が扉を叩けど、案の定何の反応もなく、次は威嚇するように強めの調子で殴った。やはり何の応答もないので、益々時間の無駄だと思うと柄にもなく少しイラッときて、それから足で蹴った。バン、ゴン、ガン、と殴りつけるたびに鉄のドアは違った音色を立てた。最後に蹴った時はボキッ、と鈍い音がして手ごたえが得られたような気がした。ふと見れば、扉の鍵の部分が歪んでいる。
 

 もうあと二、三回ダメージを与えたら、ドラマか映画よろしく派手に蹴破れそうだった。そう思って一発蹴ると、扉は音を立てて開いた。同時に室内からは、ムッとした熱気が溢れてきたのが分かった。

 

「おっ、開いた」

 

 思わず独り言をこぼしながら室内へと入ると、予想していた以上の熱さに迎らえた。同時に、えずきたくなるくらいにむせ返った血の臭いも、無遠慮に鼻腔へと浸食してきた。『く』の字に曲げられた状態で放置されたその同じ制服姿の遺体を見て、ああ、と、納得した。大方予想通りだった。

 木崎は特に躊躇もせずに、その死体が誰なのか、また死因は何なのかを探るべく近づいた。近づくにつれてその臭いは更に強烈なものとなり、血気に混ざってきつい排泄物の臭いもした。絶命の瞬間に漏らしたものだろうと思われるが、流石の木崎も抵抗がないわけではなかった。強烈なまでの熱気とその臭気に反射的に息を潜め、木崎はそのうずくまるような姿勢の青年に近づいた。

「……林先輩」

 溢れ出る内臓を抱えるようにして背を曲げていたその主は、林、というまだ自分とそう変わらない年頃の、一応先輩にあたる人だ。正直言ってそんなに親しくした覚えは――思い出そうとしたけど、くだらない会話を何度かかわし、適当な相槌を打った程度のものしか浮かばなかった。そのくらいの仲でしかなかった。叔父の死に際の事と比べている自分がいて、馬鹿馬鹿しくなり、むしろどうして比べようとしたのか不思議になった。

 室内では赤色灯がチカチカと廻っている。
 せり出した眼球、血にまみれて湯気の立った臓物を床に垂らし、あとどうも喉を裂かれているのが分かった。深い切り傷は大きく口を開け、ピンク色の脂肪を惜しげもなく露出させている。顔は鬱血して所々腫れており、青あざがうっすら浮かび始めているのが分かった。

(この人も相手に立ち向かったんだな。それで結局、こうなってしまったわけだけれど。無抵抗に只惨殺されたわけじゃないらしい)

 

 という事は、相手は拳銃やすぐに殺せるような武器を所持していないのだろうか。こちらが気付くのを遅らせる為に、あえて使用しなかっただけかもしれない。しかしこの真新しい死体の状態からいってもそれが相手側の目的とは思えない。この目立つような殺し方、明らかにこちらを挑発しているとでもいうべきか。


 楽しみながら、そして散々甚振りながら殺してやった。
 残虐な殺害の仕方の裏には、お前らのような存在なんか怖くない。こんなにもひどいことができるおれは、すごいんだ!――そんな幼稚さやガキっぽさが感じられて、木崎は何とも言えない心地にさせられた。

「……異常発生、か」

 ぼそりと呟くと、木崎はその場から腰を上げた。
 やはり、どういうわけなのか今の自分は叔父が殺された時の事を思い返さずにはいられなかった。壁に飾られていた鏡を見ると、自分のすぐ背後に叔父の亡霊が佇んでいるのを見た。勿論それは自らが作り出した妄想だと分かり切っていたけど、吸い寄せられるようにふらふらと近づいた。

「叔父さん――、」

 

 呟くと、鏡面に映る叔父は悲しそうな笑顔を浮かべていた。鏡に手を伸ばした。まるで導かれるように。

 

「分かっている」

 

 血と体液で水浸しになった室内に佇む叔父を背後に感じながら、木崎は彼の幻影に向かって頷く。首を垂れる。そこにいる叔父は、まだ自分が幼い頃に最後に見た装いのまま。――木崎は鏡に向かって手を触れた。

 もう何も奪わせない。俺から何も奪わせない。誰にこの気持ちが理解できるんだろうか。今のこの世界には、もう俺しかいない。俺しか――木崎は気付くと右の拳を鏡に向かって殴りつけていた。痛みはなかった。鏡を見つめると、ひび割れてアシンメトリーになった自分の姿がそこにはあった。


 腕を引くと、今しがた殴った拳には自らの血が滲んでいた。そこでようやく思い出したかのように、痛みは遅れてやってきた。


 先程から、注意深く動いている自分とは違いベイビードールは呑気にスキップしたり鼻歌を歌ったり。

「……何も出てこなくて暇だねぇー……」

 しまいにはこれだ。
 オマケに生あくびを噛みしめながら、ベイビードールがぼやいたのが分かった。彼女、いやいや、彼なりの冗談のつもりかもしれないが――もはや苦笑さえも浮かべる気にはなれなかった。“運び屋”ことネームレスは、ベイビードールから受け取ったショットガンをスリングで肩から吊り、相変わらずの病衣のまま移動していた。

「それにしても裸足で移動って運び屋さん、あんたワイルドだね。足が素敵」
「だからそれを今探しているんだろう。この服も着替えたいんだ、消毒液臭くて適わん」

 外の状況は一体どうなっているんだろうか。
 ここの施設にしたって外部の目に触れないようにか、窓らしきものが一切見当たらない。人は愚か虫一匹の気配さえも、あの化け物以降は感じられない。――他の患者はどこへ行ったのだろう? この異様な事態に、もう既に逃げ出してしまったのだろうか。
 
 ネームレスは扉に耳を当て、病室に誰かがいないか耳を澄ませてみた。

「ねぇ運び屋さん、クイズしない?」
「……」
「パンはパンでも食べられないパンはなーんだ!」
「……、…………」
「ちっちっちっちっち~、あと五秒でーす。ごー、よん、さーん……」
「……。フライパンか?」

 

 扉に耳を押し当てていたネームレスが眉間にしわを寄せながら尋ね返すと、ベイビードールは頬を膨らませ、口元に指で×の形を作りながら「ぶっぶ~~~!」と叫び返してきた。顔の整った美少女、いや、美少年ではあるが却って腹立たしいのは何故だろうか。

「正解は腐ったパンでした~。フライパンはそもそもパンの種類じゃないでーす」
「腹が立つからその顔やめろ」

 そうすると、少し拗ねたような顔でぷーっと頬を膨らますのだからたまったもんではない。もし本当に彼の精神が成人男性だというのなら、一発殴って目覚めさせてやるのも悪くないんじゃないだろうか。――と、イラッと来たものの、彼が一応恩人だった事を思い返してやめておく。このショットガンだって、ベイビードールが与えてくれたものなのだ。

「次はしりとりしない? 俺からいくね、しりとりーで、りー……リニューアル」
「もういいから少し静かにしてくれないか?――この部屋、誰かがいそうな気配があるんでね」

 その言葉に、ベイビードールは驚いたように目を丸めてから肩を竦めた。

 ネームレスが、しんと静まり返った施設内を見渡し、それから壁に寄り添うようにして足を動かした。扉に向かって耳を押し当てると、扉の向こうに確かに何か――ともすれば聞き漏らしてしまいそうな程の微かな物音が一つした。

 こつん、と何かがぶつかるような小さな反響音にネームレスは確信を抱いた。しかし、その確信が警戒心へと変わるのも早かった。その淀みを代弁するよう、ベイビードールが口を開くのが分かった。

「いたとしても、たぶんマトモな奴じゃないと思うよ。無視したら?」

 全くもってその通りでしかなかった。おまけにそのマトモな『奴』というのは、人間のみと限らないのだから恐れ入る。ネームレスはその言葉を肯定していながら、だからと言って全面的に彼を信用できるわけでもなかった。こいつに関しては正直に言って半信半疑、という言葉が一番適切だった。というよりも現状、誰も信用できない。

 こちらのそんな感情を見抜いているのか否か、ベイビードールはため息交じりに視線を下げ、それから退屈そうに唇をへの字に曲げた。

「……あーあ、煙草吸いてえ。あと、思いっきりキツイ酒をめいっぱい飲みたいなあ~。次の日記憶なくしてフラフラんなるようなやつ!」

 うしし、といたずらっぽく微笑みながらベイビードールは何か悪い事でも企む子どものような顔つきでぼやいた。――そもそも、その姿は借り物だという話だけれどそれにしたって胡散臭いのには変わらない。何もかもを信じられない状況。全てを疑わなくてはならない状況。――改めて考えても恐ろしい話だ、勿論、だからこそ今こうして扉に手をかけている自分の手は微かに震えているのだろうけど。

 コツン。コツン。……コツ、とその不定期な音は途切れ途切れに今も尚分厚い扉の向こうで続けられているようだ。鍵は開いているようで、それを知った時には一層自分の身体に冷たい汗が浮かんだのが分かった。緊張がもう一段階持ち上がったのを自覚し、そして、ネームレスはドアノブを掴む。

「!」

 一気に開いてみると、顔面に何かが覆い被さってきた。悲鳴はあげなかったが驚きに身を竦め、弾みで詰まったような呼吸を一つ漏らした。

「っ……これは――」

 鼻を覆うような異臭に思わずのけぞり、慌ててそれをどかし全貌を確認すると、首を吊った状態の男だと分かった。扉のフックにシーツを括り付け、それを使って自死を決行したようである。傍らには蹴り倒した後であろう木製の小さな椅子が転がされていた。

 そうか。首吊り死体がぶつかる音だったのか、扉の向こうの気配とかすかな物音は。……随分とまた悪趣味な話だ、納得するのも嫌になる程に。

「……。見りゃ分かるだろうけど、自殺――したんだね。死体の状態からいって結構真新しいのかな、腐敗はそこまで進んでないみたい……だけど……」

 背後でその一連の流れを眺めていたベイビードールだったが、一歩前に出てそれを眺めつつ呟いた。独り言のような調子ではあったが、ベイビードールは死体そのものにはあまり反応を示さずむしろネームレスの方へと意識が注がれているかのようであった。いささか呆然とした状態のまま立ち竦んでいるネームレスに向かい、ベイビードールは眉間に皺を寄せながら唇を開いた。

「昔の貴方だったら、このくらいでは動じなかったのに。やっぱり他の人格が、今の運び屋さんの中には自我として芽生えつつあるのかも」
「――意味の分からない話はよしてくれ、余計に混乱させる気か」

「違う、助言してるつもりだよ。……その人格がどんな人物だったのかは俺の分かるところじゃないけど、下手したら命に関わってくる問題でしょう? 血に免疫もないような、それこそ虫一つ殺せない人じゃあ、この先とてもじゃないけど……」

 言いかけるベイビードールに背を向け、ネームレスは室内へと入っていくのだった。黴臭い室内は、自分が寝かされていた病室とは打って変わり随分と荒んで古ぼけて見えた。ベッドも小汚いし、壁にも天井にも薄い汚れやシミのようなものが点々と浮かんでいる。
 ちなみに、部屋の主であろう首吊り遺体から漂う腐りかけの肉の臭い、動物的な糞尿と体液の入り混じった臭いも加わり、もはや室内は異臭という異臭に包まれていた。顔をしかめつつ振り返ると、死体のせり出た眼球、だらりと伸びた舌が視界に入り、殊更に吐き気を催しそうになった。

「どうして死を選んだのかな。只何となく死にました、っていう感じには見えないんだけど。やっぱり化け物どもから逃げる道を選んで、その結果としてこうなったのかな?……俺達がもっと早く来てれば助けられた……?」
「――さあな。もしかしたら、今のお前の話を聞く限り、俺達は何か実験体みたいな扱いを受けているだろう? 俺達は一度死んだ身で、記憶だけを引っ張り出されて、別の身体に移し替えられて作り出された『義体』。そんなところだろう? 話を整理すると」
「まあね。……って事はこのヒトもひょっとしたら俺らとおなじ、実験体のようなものなのかも。それに絶望して――」

 ベイビードールはその先の言葉は伏せたが、まあ、何となくの想像はついた。行き着く先に待つんであろう、救いのない事実。しかしまあそういう事なのだろう、この状況というのは――と無闇に納得している自分がいた。

「……あまりまじまじと見たいものではないのには変わりはないが」
「とか何とか言いながら、早速荷物漁り? ドロボーと一緒……ていうか死体から盗むって何か道徳心のカケラもないね」
「――さっきのクイズの答えだけどな」

 脈絡なく吐かれた言葉に、ベイビードールが「ん?」と肩を竦めた。ネームレスは言いながら部屋の隅にまとめられた、住人のものと思しきバッグを引っ張り出した。

 そうだ、その通り。死体泥棒と同じである。
 
 引きずり出した、スポーツバッグくらいの大きさのそれのジッパーを下げると男の着替え類がいくつか見つかった。サイズ的には――、少しばかり小さいかもしれない。胸板の辺りが多少きつい気もしたが、この際構うものかと手近にあった白のヘンリーネックシャツを手に取った。その消毒液臭い病衣をさっさと脱ぎ捨て、この黴臭い空間にしばらく収納されていたんであろう白のシャツへと着替えた。

 シャツそのものは清潔で、それどころかむしろアイロンが行き届いており柔軟剤のものだろうか石鹸のような薄い香りがした。腕を通し、裾を合わせてみたが問題はなさそうだ。

「俺は多少腐っていようが構わずに食えるんでな。だからその正解は俺にとっちゃあ、不正解だな」
「……う……、何だよそれ~。そして構わずパンツ見せないでよ、こんなかわいい子の前でそんな堂々と脱いじゃうの……?」
「お前が言うように本当に男同士なら問題ない」

 構わず下も脱ぎ捨てると、ネームレスは同じ荷物にまとめられていたデニムを取り出して足を通した。こちらも問題はなさそうだが、腹の部分が少し緩いくらいか。ベルトでもしておけばまぁ平気か。

「……運び屋さん、俺の事疑ってるよねぇ。スパイとかじゃないからさ、安心していいんだよ? 別に。ここを脱出する間くらいでも信じあわない? それに俺、これでも記者なんだよ。結構、この施設に関する情報も仕入れてるんだ」
「――それで? その情報を俺に提供してくれるって話か?」
「仲間として組んでくれるんなら、共有するのは当然かなぁって」

 駄目? とベイビードールが小首を傾げつつ問いかけてきたが、真意がまるで読めずにネームレスは着替えを終えると、襟元を整えてから更にハンガーにかけられた丈の長いそのコートを手にした。全体のシルエットを隠すのに、丁度いいサイズだ。何となくだが肌を晒すのが好きじゃない、という漠然とした思いだけがあり、コートを羽織るのだった。

「っ……」

 ふと、ベイビードールが何かに気付いたのかはっとしたようにその場で振り返った。

「運び屋さんっ、あんまダラダラ悠長にしてらんないよ。誰か来る」
「……本当か? 何も感じないんだが」
「あー、もうっ。またそうやって自分の感覚しか信用しないんだから、そうやってどんどんめんどくさいオッサンにならないでよ!」

 何故、急にそんな怒られなくてはなるまいとある種の不条理さを抱きつつもベイビードールは随分と切羽詰まった様子だった。荷物をまとめるこちらの手を慌てて引っ張ると、一秒でも早くこの部屋から出る事を迫った。

「何、その旅行の準備でも進めるようなのんびりしたオッサンみたいな手つき! やっぱりさあ、運び屋さんの脳味噌ちょっと平和ボケした一般人が混ざってそうだよねそれ絶対!」
「お、おい……」
「ほら、とにかく出て! 死体ごと見つかったら完全に俺達が犯人にされる流れだよ」

 ベイビードールに腕を引かれる形で無理やり廊下に引っ張り出され、慌てた手つきで彼は扉を閉めた。それで少し安堵したみたいだが、すぐさま気配の迫る先を見据えたよう意識を切り替えた。

「っ……ほら、聞こえない? 足音」
「……」

 言われて初めて、ネームレスの耳にもそれが伝わったようであった。というか、大分その音が近づいてきつつあるのか反響されて大きくなってきたんであろう。材質は革靴……だろうか、『一応、今のところは』人間のそれに違いないのだけれど油断はできない。

「運び屋さん、ショットガンそのコートの下に隠せる!? 流石にちょっと不利すぎるから!」
「今更のようで悪いが俺もお前も十分怪しい見た目をしているよな。そもそもこの武器、お前どこで調た……」
「シッ!!」

 ベイビードールに促され、言葉を飲み込んだ。薄暗い廊下の先では、誰かが手にしているのであろうライトの光が確かに揺れている。こちらに向かってきているのは、もはや変えようもない事実だろう。
 コツ、コツ、コツ――と一歩、また一歩と迫ってきた足音と共に姿を見せたのは警備員――なんだろうか。しかし、その装いは水色の制服警官にも見えたし、はっきりと胸元の勲章のようなものが光っているのもこの距離から拝めた事から、この施設は病院ではなく刑務所に近いものではないかと察する。

「……言ったでしょ?」

 ベイビードールの「言わんこっちゃない」と訴えるような視線とぶつかった。姿を見せたその巡回中と思しき青年は、ライトのビームをこちらに向けた。向こうも誰かがいるのを予想していたのか、さほど驚いた様子は見せず――いや、それにしても落ち着きすぎじゃないか、というくらいに動揺しないのでむしろこちらの方が驚愕した程だった。

「運び屋さん、ちょっと大人しくしててよね。俺が一芝居打つから」
「……」

 特に反論もせず、肯定もせず。黙ったままなのをベイビードールは肯定と受け取ったのか一度自分の指先をひと舐めた。それを目元辺りにささっとなじませると、くるりと青年の方に振り返った。

 

「……、君達は?」

 

 青年の声は妙に平坦というのか、のっぺりとして感情が籠っていないようにネームレスの耳には届いた。人間らしくない、とでもいうのか。暗がりの中、ライトと切れかかった証明の薄明りの下だったが、均等に顔の整った男だという事が伺えた。女好きのしそうな、嫌味のない美形だ。職業柄、護身程度には――いや、どうだろう。日頃から何らかの鍛錬をしているのには違いない。引き締まったアスリート然とした筋肉は、年齢の特定を妨げていた。

 

 男は自分達とはある程度の距離を保ったままで、徒歩を止めた。こちらを疑っている筈なのに、何故か男はそれをおくびにも出さないような表情をしている。……何事にも無感動な、どこか虚ろな瞳。周囲に人影がないのを確認しているように、ネームレスの目には見えた。

 

 男は欠片程も動じずに、もう一度こちらを見た。

 

「ごっ、ごめんなさい……道に……、道に迷っちゃって……それで……」

 

 すかさずベイビードールが目に涙を潤ませたかと思うと、おろおろとした様子で躍り出た。縋りつくように告げ、ベイビードールは上目遣いにその青年を見上げた。非力でか弱い少女の姿がそこにはあった。
 

 全く、見事としか言いようがなかった。
 その姿は本当に力無き儚い女の子でしかなかったし、この愛くるしい顔で哀願されたのなら大抵の者は(特に男であるなら尚更)信じないわけにはいかないだろう。いや、信じなくとも――彼の為に何とかしてやろう、とその場で心に誓うかもしれない。理解と保護を求める声と表情で、ベイビードールは続けて言った。

「私、怖くてそれで……ここでこのオジサンと出会って出口を探してるんです……」
「そう。――じゃ、君はどうしてここに? ここは君みたいな女の子が入れるような場所じゃないから、つまり……」
「め、目が覚めたらここにいたんです……でも何も思い出せないから……」

 男は「なるほど」と呟いて、一つ顔を頷かせた。

 

「そっちにいる人も同じ?」
「ああ」

 

 全くもって、嘘偽りのない話である。目が覚めたらここにいたのだ。それ以外、どう説明したらいい。というかむしろ、こっちが知りたいくらいだった。

 

「――よし、分かった。じゃあついてきて、俺が安全な場所にまで案内するから」
「こ、ここってやっぱり……危険なんですか……?」

 

 瞳を潤ませながらベイビードールが尋ねかけると、男はやはり欠片程の表情も浮かべず(ちょっとだけ、作ったような笑顔が口元にはある)不安そうなベイビードールを安心させるように穏やかな声で返した。

 

「心配しなくても大丈夫だよ。俺についてきてくれたら、大丈夫。女の子くらいならちゃんと送り届けられるから」
「……ありがとう、お兄さん……」

 

 冗談めかして男はそう言ったが、目が笑っていないようにネームレスには見えた。ネームレスは歩きながら、男の胸元のエンブレムと共にネームバッジをそれとなく確認してみた。木崎、と書かれたその名を確認し、やはり何も思い出せるものはない事に落胆を覚える。

 それから、更に視線を下へと落としてみた。

 

「……」

 

 木崎、というその男の拳――ライトを持っていな方の片手に血のようなものが滲んでいる。何かで切ったような痕跡が見受けられ、何となく彼に抱いた違和感が自分の中で膨れ上がっていた。

 

「でもさー、おにーさん……」

 

 しばし足を進めていたベイビードールだったが、ぽつりと呟くようにして吐き捨てたかと思うと歩行を止めた。連なるように、ネームレスも、前を行っていた木崎も立ち止まったのが分かった。ベイビードールの顔は、くすっと堕天使の笑みに切り替わっていた。

 

「生憎だけど俺、女じゃないんDEATH★」
「え?」
「残念でしたーっ、チンコもタマも二つちゃんとついてまぁーす! カワイイ男でごめんねー!……って事で、先手必勝ぉ!!」

 

 ベイビードールが、勢いをつけてブーツの爪先を蹴り上げた先は男の急所。いわゆる、金的である。ちょっとコツン、とされるだけでもHPが半分は削り取られるあの、男にしか分からない恐怖の一手。――いや、テレビなんかじゃ面白おかしく放送するけれども、あれは下手すると、死を招く。

 

「!?」

 

 いくら記憶喪失になったと言えども、本能からなのかネームレスにもなんとなーくその恐ろしさが伝わってきてしまい、まるで自分がそこを蹴り飛ばされた気持ちになった。思わず顔をしかめ、それから自然と股間に力が籠る……って、こう書くと何だか変な意味に受け取られそうだが。ベイビードールの作戦としては、彼からまず自由を奪う。鍵を奪う。そして道案内させ、自分達の情報を聞き出す。そんな流れか――いやいや。

(穴だらけもいいところだ、こっちには信用しろなどと言っておきながら何てアバウトな作戦だろうか。いや、作戦と呼ぶのも恥ずかしくなるくらいだぞ。それ)

 

 哀れむように青年――木崎の方を見ると……ネームレスはそこでハッとなったよう肩を竦めた。様子がおかしいのは木崎ではない。むしろ、ベイビードールの方だった。

 

「そうか。だったら、俺も安心して手を上げられるね。……流石に女の子の顔やら身体を殴るのは抵抗があったよ。痣や傷が残るのは良心が痛む」
「金的が……効いて……ないの……?」

 

 ベイビードールが乾いた笑いと共に見つめると、彼のブーツの先が木崎の太もも辺りでがっちり挟まれて食い止められており、生憎狙いには届かなかったらしい。――当たり前だろう。男にとって最大の急所ともいうべきそこを、戦い慣れた相手が簡単に許すわけもない、のに。ベイビードールが「ちきしょう! 離せ、こんのぉ」とその足をひっこめようとするや否や、木崎は器用にその足を挟んだままベイビードールの小柄な身体を巻き込んでの投げ技を見せた。柔道の技のように見えた、そうか――警察官になるには剣道か柔道が必修科目だったな。両脚で逆に横手に投げ飛ばされたベイビードールは、スカートがめくれるのも憚らずに転がるとすぐさま受け身を取って起き上がった。

「……今のその行動は、俺へのゴングと見なしていいわけかい? 女男くん」
「ち……ちっきしょーめ、やるなアンタ……」

 

 悔しそうに顔を上げたベイビードールだったが、果たしてこれは――いや、あまりいい状況ではない、のでは、ない、だろうか。

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