#4-2 / 三十路独女ミミの場合
その日は色々とあって、中々退社できず定時の五時半を過ぎても仕事が終わらなかった。電話が次々と入ったのもあり、色々と片付いたのは結局夜の七時半過ぎであった。トキオ、お腹空かしてるだろうな。早く帰らなければ、とミミは思った。
「あ、みみみちゃん」
「はい?」
振り返ると、時尾がいつものにこやかな笑みでカルテを片付けながらこちらを見つめていた。
「今日、この後は予定ある?」
「え……?」
馬鹿正直に『猫に餌をあげます』というのは流石に言い出せず、言葉に詰まってぽかーんとしてしまう。と、時尾は申し訳なさそうに眉を下げながら軽く片手を持ち上げた。
「ごめんごめん。いや、遅くなっちゃったしさ。夕飯でもこの後どうかなって。近くにつけ麺屋でも行かない? いろは麺って、あそこ結構美味いんだよ」
「あ、ハイ……友達から聞きました。私は何か、一人ラーメンって勇気なくて入った事ないんですけど」
確かに、ここまでクタクタになってからの自炊って結構面倒くさいものがある。食べた後はその食器を片付けて、洗濯物だって畳まなきゃだし、風呂にも入らなきゃだし。それにラーメン屋なら、長居はしないだろうし。
「そんな雰囲気の店でもないよ、結構家族連れとか女の子一人で来てる子いるし」
「詳しいんですね。そこまで通ってるんですか? ひょっとして常連とか?」
「帰りが遅くなると、自炊が面倒でどうしてもねえ」
「あはは。分かります、それ」
って事は、独り暮らしなんだ。さりげなくリサーチ出来た事に内心喜びつつ、ミミは帰社の準備を進めた。会社を出て、徒歩で三分程。他愛もない会話をしながら店内へと足を運ぶ。
少し無愛想な店長が有名なこの店に、近寄りがたいといって怖気づく客も多いとか。が、手の込んだ魚介ベースのダシは、ネット上のレビューなんかでもしょっちゅう通の舌を唸らせているとの事で、口コミによる根強い人気を誇っているそうだ。お陰で、いつも常連客で賑わって活気づいている。
新米らしい、まだ学生くらいの女の子の店員が注文を聞き取りに来た。どこかおぼつかない様子で、メニューも覚えきれていないのだろう。何度かこちらの注文を聞き直す様子が初々しい。
「みみみちゃんも、あんな時があったんだねえ」
「今も結構あんな風に慌てちゃいますよ」
「そうかな、手術の時とか凄い落ち着いてるように見えるけどね」
「本当ですか?……あまりワタワタしてると、ワンちゃんやネコちゃんも不安そうにするんですよ。だから、なるべくなら出来るだけ冷静にしなきゃなあって思うんです」
「動物はある意味、人間よりずっとそういう感性が鋭いからね」
それを聞いて、ああ、やっぱりこの人の喋り方もそうだし物の見方もそうだし――まあ、好きなんだろうなあ私。と、ミミは思った。勿論、贔屓目ってのもあるのだろうが、この人と一緒にいる事で、新しい自分の姿をいくつも見つける事ができた。彼と話していると、ミミが自分自身に抱いていたイメージが、いかに違っていたかに驚かされる。不思議だった。
どこか斬新な観点を、この時尾先輩は持っているのかもしれないけど。
「へー、猫を飼ってるんだ。ペットオッケーのマンションなの?」
「はい。お隣の人も、チワワを飼ってますよ」
「俺も実家に、雑種の犬が一匹いたよ。三年ほど前に病気で死んじゃったけど、十五年は生きてたから。犬にしては大往生した方かなあって」
「そうですね。でもやっぱり、悲しいですよね」
麺なだけあって、あまりのんびりだらだらと食事しているとすぐに伸びてしまうのが問題だ。もっと話していたいけど、家にいるトキオの方も気になるし、ちょうどいい選択だったのだろう。――それにしてもこういう店って、やっぱローテーションっていうか周りが早いんだよね。デートには向かないよなあー……。
萌絵が昔、気の乗らない義理のデートにはつけ麺を選ぶと言っていた。長居しなくてすむから、だそうだ。――まあ、今は会社帰りだしデートに来たわけじゃないから別に……と何故か萌絵のその言葉と今の自分を重ねてひょっとして遠回しに「お前は脈無しだ」って意味なんじゃ、と一人で勝手に想像して青ざめた。
「あ、じゃあここは俺が払っておくから」
「え!? い、いいですよぉ。このくらい流石に……」
「誘ったのは俺なんだしさ、気にしないで。その代わり、仕事で頑張って返すように」
卒なく笑いながら言って、時尾は伝票を会計に持っていくと本当に無駄のない仕草で暖簾を潜り抜ける。――いいなあ、何か。知らず知らずミミはバッグを持ったままそんな彼に見とれ、取り立ててイケメンというわけではない……いや、どうなんだろう。あの萌絵が『爽やかな』と評したくらいだから、もしかすると、かっこいいのかもしれない。って失礼な話だ。
それぞれ地下鉄に乗り、「お疲れ様」の挨拶を済ませ、丁度ホームにやってきた車内へ。ラッシュを越えたガラガラの空間は、妙に居心地が良かった。座席にぼすっ、と座ると思わず顔がにやけた。
(いかんいかん、これじゃあ変質者じゃないの)
忘れちゃならない、とバッグからスマホを抜き出してラインを立ち上げた。社内連絡用という事で、互いにラインの連絡先は一応既に把握している。すぐさま時尾との会話を立ち上げ(まあものの見事に業務的な会話しか残されちゃいないんだけど……)お礼の連絡を。
(ど、どうしよう……もしかして何かこれって駆け引きとかあるわけ!? 普通に業務的にありがとうございました、でいいのかな……最後に可愛いピンクのハートマークとかつけるべき? 無理! それは私が明日から会社行きにくい!)
あああっ、と叫び出したくなるのを抑えてもだもだしていると正面のサラリーマンに露骨に変な目を向けられた。気恥ずかしくなり、すんません、と心の片隅で謝っておくと座席に赤い顔で座り直した。こほん、と咳払いしてスマホを再び見つめていると、こちらが送るより先に時尾の方からメッセージが入ったようだ。
『みみみちゃん、今日は付き合ってくれてありがと! 猫ちゃんにもヨロシク(^▽^)/~』
画面と睨めっこしていたせいで、即・既読がついてしまったに違いない。
(さ、先超されちゃった。とりあえず無難に『こちらこそありがとうございました、ごちそうさまです』……みたいなのが一番だよね!?)
ああ、何だか疲れるけど、妙に楽しい。この人だからこそ楽しいんだろう。この人だからこそ――こんなにもドキドキしている自分がいるのだろう。
帰宅するなり、トキオにキャットフードをやり、それからトキオを抱きしめてゴロゴロとベッドの上で多幸感に満たされつつ転がり回る。風呂にも入らず、化粧も落とさず、そうやって十分程、幸せの余韻に浸り続けていた。
あんなに美味しい麺を食べたのは、生まれて初めてかもしれないって。何だかミュージカルでも始まりそうな勢いだ、今の私は。猫を抱きかかえたままくるくる回って踊って歌い出したい……南無。
たかがラーメン。
たかが上司。
たかが男。
されど、これが恋。
「みみみちゃん。はい、これ」
「え?」
目の前に差し出されたのは、この付近じゃあ結構美味しいとされている洋菓子屋『フルール』の包み紙だ。丁寧に包装されていて、トリコロール柄のリボン、ちいちゃなクラウン型のオブジェが添えられている。
明らかに、誰がどう見てもプレゼント用であるのは違いないけど。
更には、極めつけのようなミニブーケが一つ。花束、というとちょっと気合い入りすぎているけれど、そこまではいかない手頃なサイズの薔薇が七本。白をベースにした薔薇には鮮やかな青色とピンク色が混ざったレインボーカラーで、しかも生花のようである。
「明日って誕生日じゃなかった? おめでとう、ここのマカロン有名だったからね。いやー、早起きして並んだよ昨日!」
「え、な、何で……っ!?」
何で知ってるんですか、と言いたいのを表情で彼は察したのだろう。すぐに微笑んで、「だってラインのアカウント名に日付入ってたから。それが誕生日なのかなって」といやらしさも感じさせずに返すだけであった。
その様子ときたら、まるで上司としてするべき事をしたというだけの、下心のようなものは微塵も感じさせない只それだけのものなのだけれども。
(な、何事もなく三十一歳を迎えると思っていたのになあ……これは結構嬉しいかも)
結構? いや、かなり。相当。めちゃくちゃ。……他に何があるだろう、この最上級の喜びを表すべき言葉は。早速、萌絵に報告のラインを送り、それからその日はずっと変な方向に意識が飛ばないように必死だった。
『それ、完全に気があるんじゃね?』
『マジか……早とちりじゃないよね!?』
『いや、分かんないけど。でも、わざわざ有名店にまで並ぶとかちょっと凄すぎじゃん。しかも早起きして並んだんでしょ? 普通しないわwwww』
『それなwwwwwww』
『しかも花束って! 気合い入りすぎだしね』
『ちょっとビビった』
お決まりのスタンプを飛ばしつつ、昼休みが終わろうとしていた。
『メッセージカードとかは入ってた?』
『開いてないけど、外から確認する限りはない……のかなぁ』
『帰宅したら要チェックだね~。そういうの、わざと見えづらいどこに入ってたりで試されてる時あるから、見逃さないようにね!』
『おっすおっす、先輩!!』
心の中でスチャ、っと萌絵先輩に敬礼しておき、ミミは最後のサンドイッチ一口を齧り終える。ただ、引っかかるというか、気になったのは当日じゃなくて前日にプレゼントっていう事くらいだろうか。極めて業務的な匂いしかしない、仮に、仮にもし、だ。相思相愛だったとして、向こうにも、自分に好意を持ってくれているのだとしたら。
(普通は当日にサプライズ、とかだよねえ。本気で好きなら……だけど。いや、でも時尾先輩ってちょっと変わってるからなあ。そんなの、人それぞれだから正解なんかないし)
まあ、飽くまで自分の主観に基づいた話だし。それに、もっと都合のいい妄想を浮かべるならこれはジャブみたいなもので、こちらの反応を伺っていたのかもしれない。いけるかどうか、探りを入れられているとか。そんな事はないかな? なんて、ちょっと思い上がりもいいろころか。
結局、お菓子の中にメッセージだとかサプライズ的なものもなく、マカロンは美味しく普通に頂きましたとさ。ちゃんちゃん。……ちゃんちゃん。
「花、か~……凄い綺麗なカラーリングだけど生花なんだよねえ。どうやったら長持ちするんだろ」
後でネットで調べなきゃ、ととりあえず百均で買った花瓶に差しておく事にする。それにしてもこんな色合いの薔薇は初めて見た、オプションであろうかすみ草とラメがいい具合に輝きを増している。
「何だっけ、有名な歌。吐息を白いバラに変えてっていうアレ思い出すなー……あっ、あれって確か不倫の曲だったっけ。……やだー!」
頬を抑えて部屋で一人リアクションを取る自分の姿が、偶然クローゼットに反射しているのが見えてしまった。いかにも昭和っぽくて、何かとても自分が嫌になった。とりあえず冷静になろう、とミミはベッドの上にどさりと座り込んだ。
(……これってお礼メッセージは入れるべき? 明日、直接会ってお礼の方がいいかな……)
何となくうじうじしてしまい、その日はマカロンの後に缶チューハイを三本空けて気付くとそのまま寝落ちしてしまったようである。翌日、当日のお誘いを心のどこかで期待しつつ、時尾の元へと向かった。
「あ、せ、先輩! 昨日はお菓子どうもありがとうございました。美味しかったです、一気に食べちゃいましたよ」
「本当? 良かったー、並んだ甲斐があったね」
「え、ええ! はい、はい!……その、お花も綺麗でしたし! あんな色合いの薔薇ってあるんですね」
「変わってるでしょ、レインボーローズっていうんだ。あの色が一番人気があって、予約制なんだよ」
「そ、うなんですか! はい、ええ、はい、思わず花瓶買って飾っちゃいました!」
あれ、と何となく手ごたえのなさを覚える。
別段、時尾に変わった様子はない。冷たくもないし、誘ってくるようなそういう気配もない。普段通り、何も変わっていない。恋愛上手ではない自負のあるミミにも、これ以上何の進展も望めない事は分かった。
(……ん? もしかして、えーと……ワンチャン、前みたいに仕事終わり際とか……)
まだだ、まだ慌てるような時間じゃあないと繰り返し言い聞かせ、業務を終える。しかし、待てど暮らせど――、
「お疲れ様!」
自分の望むような展開や言葉は、それ以降も特に何もなかった。特に――何も――あれ? 何もないのか。何も、ない、の、かな。
(……どういう事だ、これは……)
ガタンガタン、とつり革を持ったまま電車に揺られながら、ミミは呆然と立ち尽くしていた。ひょっとしたら何かメッセージが来てるのかも? 何度もLINEのアプリを立ち上げたが、結果は同じなのであった。
家に帰るなり、魂が抜けたようにぐでーっとベッドに崩れ落ちた。……このままシーツに溶けてしまいそうなくらいに、疲弊している。萌絵に報告する気力も沸かない、特になにかがあったわけではないのに――いや、特に何もない事に打ちのめされたのだ。期待していただけに、これはちょっとダメージが出かかった。その日は普通に自炊して、冷蔵庫の中の食品を処理する事に徹底した。
(ちょっと期待してたせいで、今日は買い物しなかったんだよなぁ……馬鹿みたいだよねー、ほんと)
仕方ない。なーんかもう簡単にインスタントラーメンでも、いっかなぁ。
やる気も出なくなるもので、こう、やけに投げやりな気分のまま……いやいや。ちょっとここで考え直さないと。別に時尾先輩は悪くない。一つも悪くないんだよね。ただ、ちょっと期待させるなよ! っていう――、ね。逆ギレしちゃってもしょうがないんだけど。ね。
テレビでは最近流行りらしい、女芸人がネタを披露していて、「あ、最近ネットでよく見るフレーズはこれが元ネタだったんだぁー。へぇ」と初めて知る。野菜を適当に切って炒めただけの具が乗った塩ラーメンを啜りながら、今日得た収穫はそのくらいだったと、ミミは三十一歳を迎えたのだった。
(……あの時食べたつけ麺はあんなにも美味しかったのに)
キャベツの切れ端を何となくトキオに与えてみたけど、ぷいっと顔を逸らされてしまった。次の日、何となくまだ女々しく何かを期待して職場へ向かってみるけど、特に何もなかった。いつも通り、只いつも通りの時尾先輩がいるだけ。次の日どころか、その次の日も、土日が終わって、翌週も、時尾から何か嬉しくなるようなアプローチがあるわけじゃなかった。
私を見て、そして話しかけて。そう思わずにはいられなかった。結局その気持ちは届かないまま、時尾先輩は変わらない笑顔で話しかけてくるだけである。一体私は、彼に何を望んだんだろう。何と話しかけてもらい、何と思ってほしかったんだろう。
今彼に話しかけられたり、LINEが届いたりしたらきっとどうでもいい事をもっともっとたくさん喋ってしまいそうだ。仕事中に彼に、業務的な話をされるたびにきっと今夜は何かがあると思い込んだ。そう思った三十分後にはやっぱりなにもない、と思い直し、期待するだけ無駄、と言い聞かせ、しかし彼が話しかけに来ると、何かあるのかもしれないと思った。そしてまた一時間も経てば、諦めた。
ただ一人で、そうやって勝手に希望と絶望を繰り返していた。
――“誰のせいでもない”
私がこの人を好きになってしまったという事実は喜ばしい話には違いないのだけれど、それが幸せという顛末へと結びつかないのは、私が悪いわけでも勿論時尾先輩が悪いわけでもない。そう、だって、分かってる。
それで、ミミの誕生日から、ちょうど一か月が経とうとした時。聞くつもりなんかなかったのに。
「入籍おめでとう、今更だけど」
「え、ちょっと、遅いですよ情報が。もう十日前の話ですって」
心のどこかでは予想していて、だけどわざと目を逸らして、見ないようにしてきた事だった。
「奥さん、三か月目なんだろ? デキ婚じゃねえかお前」
「結婚するのは決めてたんで順番が早まっただけですって! 何かまるで悪いみたいに言わないで下さいよぉ~、大体、今は珍しくない話ですし」
「まあな、確かに確かに」
――知ってる? 時尾先輩、前の彼女とヨリ戻りそうなの。別れてから、相手の方が『やっぱり貴方しかいなかった』って押しかけて来たらしいよ~
――へー積極的だねー今時にしては熱い恋愛だよねえー
――ていうか結構ドロドロしてたけどね、だから先輩もギリギリまで会社側に籍入れた事報告しなかったどころか周りにも隠してたりで何か後ろめたい事でもあったんじゃないのかなぁってちょっと思ったんだよねえ
――だって子ども出来てっしねーその辺はどう言い逃れすんだってぇーやる事やってんじゃんー先輩ったらあんな虫も殺さぬような顔してやり手ー
きゃはは、だよね。まあそれも女側の打算手且つ計算づくの行動? みたいな? それ? あれ? ハメられた? 押し倒された? きゃははははは、きゃはははは。うけるんですけどー。
過ぎ行く看護スタッフの女子二人の声を耳にしながら、ミミは蓋をしたままのトイレに座り込んでぼけーっとしていた。不思議と、泣いてはいない。だってそれは何となく、予想していた事だったから。私が見ないようにしてきただけの、事だったから。
(あーあ、死ねばいいのに。私が)
その日は帰宅するなり、トキオをうんと可愛がってやった。お前は可愛いね、本当に可愛いね。世界で一番好きかもしんない、と呟きながら抱きしめて餌も沢山与えてやった。ちょっと奮発して、高いマグロの缶詰なんかもあげちゃったりなんかして。
(男なんて、自分勝手でめんどくさい)
ううん、違う。違うんだよね。ホントは、もう知ってるんだ。一番面倒くさいのは私なんだって。私という存在が、この思考そのものが、いちばん鬱陶しくて面倒なんだ。ここでミミは、ようやく自分がぼろぼろと泣いている事に気が付いた。ほんとは泣きたくてしょうがなかったんだよね? でも、会社では泣かなかったからさ。偉い、偉いようんうん。
ミミはトキオの頭を撫でてやりながら、思わず泣き笑いのような表情になった。呑気そうにゴロゴロしているトキオの事が羨ましくてしょうがない。可愛がってやりたい気持ちと、羨望と嫉妬を同時に覚えてしまう。
それはちょうど、私が彼に感じていた思いとほとんど合致する。
(……やっぱり私は、猫でいいや)
萌絵にも後でメッセージしておかなくちゃな、とゴロゴロしながら考えた。涙はもうとっくに乾いていた。
その二日後、ミミは思い立ったように有休一週間分を一気に申請した。
正確には、元々の休みだった水・木の休みを除き、五日分を。……有休は与えられた権利だ、使って何が悪いとうのだ。それに、一か月前に申し出てるんだから文句は言わせない。
「え、みみみちゃん急にどうしたんだい!?」
「ちょっと、身内に会いに行きたいんです。法事とか結婚式とか同時に何か色々重なってまして――それに、うち、父方のおばあちゃんがいるんですが、いかんせんもう要介護ですから誰かの手を借りないと身動きも一苦労するから……それで、九州まで行き来する事考えたら一週間ほど欲しいなと……」
そんなに上手な嘘でもないけれど、下手な嘘というわけでもない。事実、父方の祖母にしばらく会っていないのは本当で、親類のうちの誰かが定期的に見に行ってやらねばならないという暗黙の決まりもあった。ミミはもう何年も会えていないけれど、いつかの機会には、様子を見に行きたいとは思っていたのだから、これは嘘ではない。
時尾は決して良くは思わなかったのだろうが、いかんせん今までのミミならば言わなかったような頼みに驚いたのもあるのかもしれなかった。快諾とまではいかなかったが、断る事も出来ずにそれを半笑いの顔で承諾した。
(というわけで、本当に一人旅行。来てしまいました)
別府の祖母に挨拶して一泊。それから、人里離れた秘湯巡りと称して、プラプラと九州を巡った。西に転じて、父が高校の時によく遊んでいたという佐世保を訪れ、昼には有名なバーガーとそれから餃子を食べた。案外美味しくてぺろりと完食し、夜はちゃんぽんを平らげた。やけ食い、とはこういう事をいうのかもしれない。
列車に乗って風景をぼーっと只眺めるのも、悪くはなかった。
一週間の、現実逃避旅行。イヤ、案外楽しめるかもしれない――三日くらいで飽きて結局すごすごと帰るんじゃないかと思ったが。
知らないうちに結構疲れてたのかもしれない、只々景色を見ているだけでも何となく気が楽になったり、心が癒されたり、のんびりと過ぎていく時間に『色々と焦りすぎたのかなー』なんて余裕も生まれてくるものだ。
そんな風に、目的もアテもない傷心旅行・四日目の夜はバスでの移動となった。
レトロな外観のバスは、ボンネットタイプの赤色のデザインがとても目を惹いた。少し年季が入っているのか、所々の塗装が剥げていたりして。が、それもまた何となく古き良き、といった趣があるように見えた。
(んー、何だろ。海外の、クラシックタイプの車って感じで好きだなあ。ヨーロッパ風なのもいいねぇ、昔のロンドンとかで走ってそうな?)
その可愛さに目を奪われつつ乗車したせいなのか、内部の事はあまり気に留めなかった。
中へと入った瞬間、明らかに空気が流れる空気が変わったような気がした。
「……?」
その一瞬の違和感にはっとしたよう、ミミがバス内を見渡すと乗客の異様な雰囲気のせいだと悟った。足を踏み入れた途端、まばらに席に腰かけていた人々の胡乱な視線が一斉にこちらを向いたので、それで反射的に足を止めてしまった。
「……」
手前の、頭にスカーフを巻いたおばさんの鋭い眼光に気圧されてしまいミミはリュックの紐を握り締めたまま硬直し、しばし固唾を飲んでいた。顔の異様に白い、とうかもはや青い――その中年のおばちゃんだったが、目を見開いたまま、一切瞬きをしないのだから、もう。
その双眸に射竦められたように立ち尽くしていると、背後でドアが音を立てて勝手に閉まったのが分かった。運転席側で操作されてしまったのだろうか。そのせいで何となく降車できなくなり、おずおずとした様子でミミは足を動かした。おばさんの視線から逃れるようにしながら、一番後ろの座席に腰かけた。
(何だろ、何かちょい不気味な感じだな。ていうか……)
バス全体を見渡して、妙な違和感があったがそれが何なのか分かった。乗っている客の服装が妙にみんなぼろくて、しかもファッションセンスが明らかに今の時代のものじゃないように見える。ダサいとか、垢抜けないとか、そういうのともまた違う――どう表現するのが的確なのか分からないが。
「…………」
むう――何なんだろうか、一体。
変に緊張した心地のままでいると、前の座席に腰かけていた子どもが突然くるりと振り返ってきた。狐面を被った子ども(少年なのか少女なのか……服装の感じからいって、恐らく少年)が、無言のままで、背もたれに手を掛けたままこちらをじっと眺めている。
その様子に何となく威圧されてしまい、ミミはすっかり言葉を飲み込んでしまうのだった。